マンションから出てきた長門と合流し、俺たちは二人で外を歩いていた。まだ十七時を少し過ぎたあたりだったが、この時期になるともうこれぐらいの時間には外がかなり暗くなっている。俺は躊躇なく先へと歩いていく長門の隣に並びながら、今回の事件について尋ねてみた。 「……それで、今度はいったい何が起こってるってんだ?」 「具体的には、あとで話す。そのほうがきっとあなたが理解しやすいから。いま言える部分としては、古泉一樹はちゃんとこの時空表面上に存在しているということ。ただ、一時的に涼宮ハルヒの記憶から抜け落ちているだけ」 「古泉のことを忘れているのは、ハルヒだけなのか?」 俺の問いに、長門は首を小さく横に振る。 「ほとんどの人間が、彼女と同様。逆に言えば、現在古泉一樹に関する記憶を有しているのは三人だけ。わたしと、朝比奈みくると、あなた」 ハルヒ以外の、あいつに近しい人間だけが例外ってことなのか?──いや、そうじゃないな。 「っていうことは、あいつの……『機関』の人たちも同じってことか。森さんとか新川さんとか」 「そう」 長門いわく、朝比奈さんに対しては先にある程度の状況を説明済であるらしい。そう考えると、ハルヒが「古泉のことを知らない」と言った時に、あの動揺しやすい方が特に驚いた様子を見せなかったのも頷ける。 この現象を引き起こしたのは言うまでもなくハルヒなんだろうが、俺は、いったいあいつが何を考えてこんな状況を発生させたのかってことが気になっていた。全く予想もつかない。 ……と、いうのは本当は正しくなくて、実際のところ、考えようによっては思い当たる節がないでもない。だが俺はそれだけはないだろうと信じていたし、その考えを口に出してしまうのはハルヒを侮辱するのと同じことになるような気がして、いやだったのだ。 俺がそんな思いを巡らせていると、何かを察したらしい長門が静かに声をかけてくる。 「今回のこれは、決して深刻な事態ではない。この現象は一時的なものであり、彼の存在が消えることも、世界が改変されてしまうこともありえない。だから、心配しないで」 俺はそう話す長門の顔を見た。いつもと変わらない、静かな目の色をしている。 いつもそうだと言えばそうだが、今もやはり長門の言葉には迷いも淀みも感じられない。口に出される言葉は非常に短いけれど、それでも俺はこいつに絶対の信頼を置いている。だから俺は「ありがとな」と素直に礼を言った。 「それにしても、じゃあいったいハルヒは何だっていきなり古泉のことを忘れちまったんだろうな?」 「それは、そのほうが都合がよいから。古泉一樹にとって」 「ハルヒにじゃなくて、古泉にとって、なのか?」 「そう」 ──駄目だ。全く意味がわからない。お手上げとはこのことだ。 「……この状況を、例えて言うのならば」 長門は、少しだけ言葉を選ぶように沈黙してから、 「古泉一樹は今、旅に出ているのに等しい」 と言った。 「旅?」 「そう」 長門がこくりと頷き、透明にたゆたう湖のような眼差しでまた俺の顔を見上げた。 (中略) ──暑い。 息をするたびに熱気のこもった空気が肺に満ちてくる。もっとゆっくり寝ていたいのに、息苦しさでそれが難しくなるくらいの暑さだった。まるで真夏だ。おかしいな、今はそんな季節じゃないのに。 そういえば虫の鳴き声も聞こえるような気がする。間違いなく蝉の声だ。これまた変な話だ。夏でもあるまいし。 しかしあちこちで鳴いていやがるな。正直言ってかなりうるさい。まったく、この暑いのに昼間っから活動的になんてなれるもんか。昼寝くらいゆっくりさせておいてくれ。 ああでも、さすがに我慢も限界だ。これじゃおちおち寝てもいられないな──。 うとうとしながらもそんな葛藤を繰り広げていた俺は、そこで嫌々ながらもようやく目を開いた。 まず俺の視界に入ってきたのは、年季が入って黒光りした板張りの天井だった。次に、自分が横たわっているのが畳敷きの和室であることに気づく。広さはだいたい六畳くらいだろうか? まだよく回らない頭のままで起きあがった俺は、そこでようやく自分の格好がタンクトップとハーフパンツという出で立ちであることを知った。これじゃまるっきり、真夏の服装じゃないか。 「ていうか、夏、なのか……?」 開け放してある窓の網戸ごしに、青い空が見えた。一目見てわかる。これは夏の空に特有の、鮮やかで濃い青色だ。 外からは、さっき俺の安眠を見事に邪魔してくれた蝉たちが、しきりに鳴き交わす声も聞こえてくる。その中でふと吹いた風が窓辺に掲げられた風鈴を揺らして、部屋の中に涼しげな音を響かせた。 どこをどう見ても、夏の風景に違いない。 でも何でだ?俺はどうしてこんなところにいるんだろう。 そう思いながら部屋の中を見回す。 そもそもここはどこなんだ?俺には全く見覚えがない場所で……。 (──いや、違うな) だんだんと混乱がおさまり、気持ちが落ち着いてきたところでようやく気づく。最初はわからなかったが、冷静に見てみると、この家は俺のよく知る場所だったのだ。 でも、どうして俺はここにいる? そう考えていた時、遠くから廊下を歩く足音が聞こえてきた。ゆっくりと階段を昇り、その音はしだいに近づいてくる。それは子供の時からの記憶にあるのと同じリズムだった。そうだ、ここはこの家の二階にある客間で、ここを訪ねると俺はこの部屋に泊まることが多かった。夏に、暑さにめげて昼寝をしていると、こんな感じの足音が響いてきて、開けはなったままの襖の陰から声が──。 「なんだい、また寝てたのかい?」 「……ばあちゃん」 そうだった。ここは田舎にある俺の祖父母の家だ。 呆然としている俺をよそに、部屋に入ってきた祖母は、さっきまで俺の体にかけられていたらしいタオルケットをたたみながら言った。 「ほんとにあんたは昔からよく寝る子だったねえ。大きくなってもそこは変わらんね」 「そ、そうかな」 若干しどろもどろになりつつ、相づちを打ってみたりした。 ここがどこであるか、というのはわかった。でも疑問はまだまだ解消されない。なんで俺はここにいるんだ? 「でもそろそろ起きとかんと。お友達が来るって言ってたのはあんたでしょ」 「友達……」 「何て言ったっけねえ。小さい頃ここにもよく来てた……。──ああ、そうそう、古泉くんだわ」 「へっ?!」 俺は今度こそ間抜けな驚きの声をあげずにはいられなかった。古泉がここに来る?小さい頃にもよく遊んだ?俺とあいつはそんな関係だったか? 混乱でうまく頭が働かないでいる俺をよそに、一階の玄関のほうから呼び鈴の音が聞こえてきた。 「ああ、来たんじゃないのかい」 やっぱりうまく反応できないでいる俺をおいて、祖母は部屋を出て下に降りていった。少ししてから、玄関のほうで何か話をしているらしい声が聞こえてくる。耳を澄ましてみれば、それは確かに、俺が聞きなれたあの声だった。 ほどなくして階段を上ってくる足音がする。軽快な速さで近づいてきたそれはすぐに部屋の前までたどりついて、襖の向こうから、その顔が見えた。 「こんにちは。お久しぶりです」 俺の前に現れたのは、間違いなく古泉だった。 ──そして、その姿を見た時、俺は思考から抜け落ちていた全てのことをそっくり思い出した。 そう、これは現実じゃない。古泉の見ている夢の中なんだ。 俺は長門の導きに従ってあいつの夢の中に潜ったはずなのだ。他でもない古泉本人を、目覚めさせるために。 そして現実を思い出すのと同時に、俺は自分の頭の中に、もうひとつ別の情報が備わっていることを意識していた。すなわち、この夢の中での自分と古泉の設定がどんなものであるかということをだ。俺はこの状況がかりそめの物だとわかっている。その上で、今この場で自分がどうふるまい、何を言うべきなのかを理解していた。例えて言うなら、忘れていた芝居の台本を思い出したみたいな、そういう感覚に近い。 だから俺は目の前にいるこの『俺と幼なじみであるという設定の』古泉に、何と声をかけるべきなのか、ちゃんとわかっていた。 「おう、よく来たな。何年ぶりだったか?」 |
(『デイドリーム・トラベラー』本文より一部抜粋) |