・プロローグ(書き下ろし)
・願いの行方(書き下ろし)
廊下にある窓からも、たっぷりと暖かな陽光が差し込んできている。頭上から降りそそぐそれを浴びながら、僕はまたそっと目を閉じた。
本当に、平和な時間だ。
約一年ほど前、この高校に少し時期を外した形で転入してきた時には、この場所でこんな穏やかな時間を過ごすことができるようになるなんて、全く想像できないでいた。
ある意味機関の思惑通りに、涼宮さんは遅れて転入してきた僕に興味を持ってくれて、この部室へ誘われてSOS団の団員になり──そして、今に至る。唯一の普通人である彼はともかくとして、長門さんや朝比奈さん、そして自分が長らくその動向を見守ってきた涼宮さん本人と直接顔をあわせるということには、僕もそれなりに緊張していたものだ。いつか涼宮さんを巡って、他勢力の末端とひそかに刃を交えるようなことがあるのかもしれないと、そんなことさえ考えていたくらいだったのだ。
だからこうやって、──あくまでも涼宮さん本人は除いて、の話だったけれども──お互いの正体を知りつつ、それでも尚ごく普通の、仲が良い部活仲間としてもつきあうことが出来ているという今の状況は、僕にとっても嬉しいことだった。
あの力に目覚め、機関の一員となってからはもう手に入らないだろうと思っていた『普通の学生としての生活』が、ここにある。正確に言えば、もちろん普通とは言いがたい面も多くあるはずなのだが、僕にしてみれば、こうやって穏やかな日常を過ごすことが出来る瞬間は、何よりも貴重なもののように感じられるのだ。
(──そう、そしてそれが可能なのは……)
僕は目を開けて、ゆっくりと隣にいる彼の姿を見る。
どうやらまだ眠気が残っているらしく、彼は腕を組んでうつむき、目を閉じていた。その横顔を眺めながら思う。
今、僕たちがこうやって穏やかな時間を過ごすことが出来ているのは、きっと、彼がここにいてくれるからだ。
確かに彼は僕らと違いごく普通の人間で、少なくとも周囲の諸組織が調査したところでは、特別な能力は何も持っていないらしい。機関の見解もまた、それらと一致している。僕もそのことに異論はない。
でも彼は、他の誰にもなしえないことを、ごく自然にやってのけてしまうのだ。だから誰もが彼に引き寄せられる。 涼宮さんを始めとして、長門さんや朝比奈さんもきっと、そうなのだろうと思う。
──本当に、不思議な人だ。
彼の近くにいて、会話を交わしたりする時に感じるあれは、いったい何なのだろうと、しばらく考えたことがある。
たとえ特殊な力を持たない相手であると言っても、今までに例がない形で涼宮さんの関心を惹いた人だ。僕もそれなりに距離を保って、機関の人間であるというポジションを崩さないままに接していた。少なくとも最初はそうだった。でもいつの間にか、しだいにそれが出来なくなっていく。いや、正しくはそうじゃない。そんな風に彼の前で自分を隠して装うことをしたくないのだと、そう思っている自分に気がついてしまうのだ。
彼が、あまりにも自然に、自分を受け入れてくれるから。
口ではどう言おうとも、彼は一度自分の懐に入れた存在を心から拒絶したりはしない。だから周囲の人間は彼に引き寄せられてしまう。抱く感情の種類には小さな違いがあるかもしれないけれど、その根本はきっと同じなのだ。涼宮さんも長門さんも、朝比奈さんも、……僕も。
(──そして、それは多分もう)
僕は彼の横顔から少しだけ目を反らした。
(自覚してしまった時には、もう手遅れだ……)



(『願いの行方』本文より一部抜粋)
・サマー・ホリデイ(サイトより再録)
・I'm home.(書き下ろし)
・優しく響け、地に降り注ぐ恵みの手(古キョン小説アンソロジー『彼らに関する38の考察』寄稿分より再録)
・あなたがここにいてほしい(2008年2月発行コピー誌より再録)
改めて僕はきれいになった部屋を見回した。一旦やり始めたらこだわってしまう性格の僕は、集中するとつい時間を忘れることが多い。でも今回はそれが効を奏したようで、疲れはしたものの、満足のいく結果を残すことができた気がしていた。
次に彼をこの部屋に迎えるのが楽しみだ。彼は、何と言ってくれるだろうか。「おまえにしちゃ上出来だ」とか、きっとそんな感じだろう。そのことを想像すると、つい唇の端が緩んでしまう自分がいる。
まるで子供のようだと思うけれど、口に出して彼が僕をほめてくれるというのはなかなか貴重なことで、そんな時僕は本当に嬉しいと感じてしまうのだ。

手を洗ってから、ソファに腰掛けて僕はまた部屋の中をぐるりと見渡す。そのうちに不思議な感情が胸の中にわき上がって来るのを感じた。

(……広い)

もう二年近くを過ごした、見慣れた部屋だ。引っ越してきた頃から比べると多少なりとも物も増えたし、
高校生の一人暮らしとしては充分な広さのある物件だったけれど、それも所詮は単身者用のつくりになっているのだから、
広いといってもたかが知れている。
今までこの部屋に住んでいて、こんなことを感じたことは一度もなかった。
でも僕は今、この部屋がとても広いと感じている。
(大掃除をしたせい……では、ないんだろうな)
僕は自嘲の笑みを唇に浮かべた。そうではない。それが原因ではないことなんて、本当は自分は最初からわかっているのだ。

この部屋を広く感じてしまうのは、彼が、ここにいないせいだ。

秋以降、彼は頻繁にこの部屋を訪れてくれるようになった。
僕はいつの間にかそれに慣れてしまったのだろうか。だからこんなことを感じたりするのだろうか?
だとしたら、自分は何と贅沢な人間になってしまったのだろう。彼がこの部屋に来てくれることを当たり前のように感じているなら、とんでもないことだ。
彼は今もなお僕にとって、本来なら触れることすら叶わなかった僥倖そのものであり、かけがえのない存在だ。
そんな奇跡を、あって当然のもののように考えるだなんて有り得ない。
ならば、それでもやはりこの部屋を広いと感じるのは、何故か?
―――わざわざ考えてみるまでもない。
彼が好きで、ただ会いたいと願ってしまうから。
本当にそれだけなのだ。
彼の迷惑になることはしたくない。
だいたい、ちゃんとご家族のいる彼が毎週決まって週末になると僕の部屋へ来てくれるというのは、それだけでも大変なことなのだと理解している。 僕たちはまだ高校生で、全てを自分の力だけで賄っていけるわけでもない。
でも僕はそのことを充分にわかっていながら、彼の訪れを止めることなどできない。
彼と一緒の時間を過ごせる機会を、どうして僕が自分から拒否できるだろう。
この年末から来年にかけて、僕たちが離れて時間を過ごすのはほんの数日だ。
SOS団の皆での初詣も計画されているし、年が明ければまた、彼に会える。

(……でも)
僕はこんなにも欲が深い。
きっと、彼の思い及ばないほどに。
たった数日会えないことを、こんなにも苦しいと思ってしまうほどに。

(……僕は、あなたのことが恋しい)

あなたがここにいてくれたら。
それがどれほど贅沢な望みであるのか、わかっているはずなのに、僕はそう願うことをやめられない。
目を閉じて、深く息を吐く。―――こんなことでは、駄目なのだ。
僕は彼のことを本当に愛しているけれど、求めるあまりに彼の負担になったりはしたくない。
だから、今会えないでいることの苦しさよりも、決まって毎週彼がこの部屋へ来てくれることの幸福を思い出そう。

そして僕はまた目を開いて、部屋の中を見た。
彼が頻繁にここを訪れてくれるようになってから、思い返せば、この部屋のあちこちに彼と過ごした時間の残像が残っているような気がする。
台所では二人並んであれこれと言い合いながら食事を作ったし、そこのテーブルでは出来上がった料理を二人で食べた。
このソファに並んで座ってDVDを見たり、寝室では同じベッドで抱き合って眠った。
その瞬間ごとの彼の姿、表情、声、言葉、それらは今そこにあるかのように記憶に刻まれていて、僕の心の中で鮮やかによみがえる。
大事にしまってある宝物を何度も何度も開いては眺める子供のように、僕は彼のことを思い出した。
そのたびに僕の胸は温かくなり、繕ったものではない微笑みを浮かべることができる自分がいる。



この部屋にはいない、今この時でさえも、あなたはいつもこうして僕を満たしてくれているのだ。



『あなたがここにいてほしい』本文より一部抜粋)