電話を終えてからだいたい四十分を過ぎたあたりで、玄関のチャイムが鳴った。覗き窓から外を見てみると彼の顔が見えて、僕はすぐにドアを開けた。
「よう、ちょっと早かったか?」
「いいえ、構いませんよ。どうぞ入ってください」
邪魔するぞ、と一言そえて部屋に上がってきた彼と一緒に、テーブルの前に腰を下ろした。
「お、扇風機か。いいな」
「ええ、今日ぐらいの気温なら、クーラーはあまりいりませんしね。ちょうどいいでしょう。これが意外に気持ちが良くて、風を浴びているうちに居眠りしてしまいました」
「あー、それでか……。そうだ、ほらこれ、もらった分の梨だ。良かったら食べてくれ」
彼が差し出したビニール袋の中には、黄色い梨が数個入っていた。受け取ると、見た目の印象よりもずしりと重い。
「ありがとうございます。さっそく剥いて食べましょうか」
「ああ、日に当たらないようにしてきたから、今ならまだ割と冷えてると思うぞ」
彼のそんな心遣いに感謝しつつ、台所から果物ナイフと皿を持ってきた僕は、ビニール袋から梨を一個取り出し、果肉に刃を入れる。林檎よりも感触はやわらかく、もっとみずみずしい。
丁寧に皮を剥いていくと、そのたびにしゃりしゃりと耳ざわりの良い音がした。そうやってただ皮を剥いているだけでも、ナイフを持つ手に実から流れ出た水分がしたたってくる。よっぽど実の中に水気をたくわえているんだろう。
四分割して綺麗に剥いた梨を皿に置いて、彼に声をかけた。
「あなたもどうぞ」
「おう。おまえもちゃんと食えよ」
僕ももう一切れを剥いて食べてみる。しゃく、と響く食感も、甘すぎずにみずみずしい味もとても好ましい。
「とても美味しいです」
「そりゃよかった。おまえ、前に果物とかあまり食べてないって言ってたから……こんなんでも良ければ、と思ってな」
最後のほうは声が小さくなる彼のそのつぶやきを、僕は温かな思いが胸に広がるのを感じながら聞いていた。
僕は一人暮らしで、つい食生活が偏りがちになる傾向はどうしてもある。特に野菜や果物は意識しないとやっぱり不足しがちなんですよ、と以前彼に話した記憶があるけれど、彼はきっとそのことを覚えていてくれたんだろう。彼のそんな気遣いが、僕はとても嬉しかった。
二人で梨を食べ終わり、僕が皿やナイフを片付けて台所から戻ると、彼がひとつ大きくあくびをしていた。
「おや、あなたも眠くなりましたか?」
「うーん、ちょっとな……。腹にものを入れたせいかもしれん。それとやっぱりこの扇風機の風はなかなか気持ちいいもんだな」
「そうでしょう。僕も結構気に入りました。まあ、久々の休日ですから、特に何もなくただのんびりするのも、悪くはないですね」
休日の僕らと言えば、SOS団の活動で市内のあちこちに足を延ばすのが常だけれど、この土日は涼宮さんのお家の都合により団活動は休みだった。夏休みの間も色々と遊びまわり、学校が始まったと思ったらすぐにテストがあったりもしたので、この週末は久々に各自がゆっくりできる時間になっていた。
「おまえはどうだ?最近ちゃんと眠れてるのか?」
「ええ、おかげさまで。ここのところは、閉鎖空間に出動する機会もめっきり減りましたし……機関への報告は定期的に行っていますが、それもたいした手間ではありませんから。それに、これ以降は暑くて寝苦しい夜というのもあまりないでしょう。あなたは──暑いのは平気なんですよね」
「ああ。その代わり寒いのは苦手なんだがな……。しかしまあ、夏休みの間もそうとう遊んでハルヒも満足げだったから、しばらくおとなしくしていてくれるといいが」
テーブルに頬杖をつきながらそう話す彼の表情を見ながら、僕は笑って答えた。
「いや、そう簡単には行かないでしょう。もう少ししたら学校祭の時期じゃないですか。たぶん、今年も涼宮さんははりきって参加するでしょうね」
僕の台詞を聞いたとたん、彼は昨年のことを思い出すように眉間にしわをよせて唸った。
「そっか……それがあるんだよな。まったく、先が思いやられるよ。静かなのは今ぐらいか?」
「そうかもしれませんね。でも僕はあまり静か過ぎないほうが良いような気がしますよ。少なくとも涼宮さんに関しては」
今までの例を考えるに、彼女が静か過ぎる日常に飽きると、ろくな展開にならない気がする。こちらとしては、平和な範囲でちょっとした騒動に目を輝かせてくれているほうが、よっぽど安心できるというものだ。
僕がそう言うと「確かにそれはそうかもな」と彼も同意していた。
そんな彼はふと扇風機のほうへ顔を向けると、何度かまばたきをして、それからゆっくりと床に寝転がった。
「眠たいですか?」
「うん、悪い……ちょっと横にならせてくれ」
「それは構いませんが、体が痛くなりますよ。ちょっと待ってください」
僕はテーブルを片付けて、持ってきたクッションを彼の頭の下にそっと差し入れた。それと、ベッドの上にあったタオルケットを体にかけておく。まだまだ夏と言ってもいい季節だけれど、体を冷やしてしまうのはよくないだろう。
「具合が悪いとかではないんですよね?」
「それはない。ただちょっと……眠くて。悪いな」
「別にいいですよ。ゆっくりして下さい」
上からそっと彼の顔を覗き込む。目を閉じた穏やかな彼の表情を見ていると、それだけで僕自身の心も凪いでくるような気がするのが不思議だ。
そんな僕の気配に気づいたのか、ゆるゆると瞼を開いた彼のまなざしが僕の顔を見た。それから彼はゆっくりとこちらに手を伸ばして、温かい指先で僕の顔をたどった。頬からこめかみ、額へと。
そのまま髪の生え際あたりを撫でられるのが気持ちよくて、僕はうっとりと目を閉じた。
「なんか、おまえ……うちのシャミセンみたいだな」
おそらくは眠気のせいだろう、とろりと力の抜けたような声で彼がつぶやく。僕は笑って、猫がよくするような仕草で彼の手に頬擦りをした。
それから軽く唇を合わせて、僕も彼の隣に横たわる。
同じようにクッションを並べて枕にし、すぐ横にある彼の顔を見た。ゆったりした表情で目を閉じている。耳を澄ますと、彼の呼吸がしだいに穏やかな一定のリズムを刻み始めるのがわかった。
無防備な、優しい寝顔だ。
それをすぐ横で見ることのできる今の自分は、とても幸せだと思った。
横を向いて眠る彼の、呼吸とともにわずかに上下する肩の動きを見ているうちに、しだいに自分の瞼も重くなっていく。
──そう、今日は休日で、今すぐに何かやるべきことがあるわけじゃない。こうして彼の隣で、のんびり昼寝をしたところで、誰に咎められることもない。何て贅沢な時間だろう……。
夢うつつでそんなことを考えているうちに、僕の意識もいつのまにか眠りの淵へと沈んでいった。






(『Quiet life』本文より一部抜粋)