「それはいいとして、せっかく九月になったっていうのに、相変わらず暑いよな……」
「今年も残暑が厳しいらしいと聞きますからね。まだしばらくこんな天気が続くと思いますよ」
「さっさと涼しくならないもんかね」
彼がふと思いついたように正面に踏みだし、廊下の窓を半分だけ開いた。ふわりと風が入り込んでくる。あまり勢いはないが、ゆるやかに頬を撫でていくその感触はとても心地よかった。
彼はそのまま右肩を窓枠にもたれさせつつ、外を眺めていた。午後の日差しの強さに、時々目を細めている。
僕は一歩離れた場所から、その横顔を見ていた。
雲の切れ間から太陽が顔を覗かせるたびに、まっすぐな光が差し込んできては、窓辺に立つ彼の姿を照らす。光に縁取られた輪郭とシャツの白さがひどく眩しい。短い黒髪や臙脂色のネクタイが落とす陰翳が、それらとくっきりしたコントラストを形作っていて、その明暗は僕の目に強く焼きつけられた。
朝比奈さんの着替えの間に僕と彼がこうやって廊下で待つ、それは日常茶飯事であって、僕はこんな場面を何度も見ているはずだ。何も珍しいことなんてない。夏休み前にも、やはり同じような暑さの中で、似たような光景をきっと目にしているはずなのだ。
それなのに、今の僕は彼から目が離せなくなっていた。頭でその理由を考えるよりも早く、自然に視線がそちらへ吸い寄せられる。
また窓の外から風が吹き込んできた。さっきよりも強いそれにあおられて、彼のまとった白いシャツの袖がはためく。そのたびに半袖の袖口とそこから見える二の腕の境目がわずかに揺れ動くのを、僕は無言で見つめていた。
気がつかないうちに、しだいにまたあの衝動が呼び起こされていく。確かに自分の中から生まれたはずのその意識に押し流され、溺れて、息ができなくなる。たったひとつの感情に支配されて、そこから動けない。


(あの袖口の隙間から指を這わせて、彼の肌に触れてみたい)


「すみません、お待たせしましたぁ」
部室のドアが開いて、いつものメイド服に着替えた朝比奈さんが姿を見せた。
「いえいえ、そんな待ってないですから」
そう言って彼が笑いかける。
二人のいつものやり取りを目にしながら、僕はようやく我に返っていた。

──自分は今、何を考えていた?

そのことを思い返すたび、堰を切ったように鼓動が跳ね上がっていく。心臓が悲鳴を上げそうな速さで脈打つその音が頭の中に響いて、僕は気づかれないように手のひらを握りしめた。
「古泉、どうした?」
先に部屋の中へ戻った朝比奈さんに続こうとした彼が、動こうとしない僕を不審に思ったのか、ドアに手をかけながらちらりとこちらを見る。
「──すみません、ちょっと。先に戻っていてください」
「ん?ああ」
不思議そうな表情を向けてくる彼を残して、僕は足早にその場を離れた。一刻も早く彼の前から離れなくてはならないという強い思いに急かされて、今にも走り出しそうになってしまう自分を、懸命にこらえた。

僕はひとつ階を下りた所にある男子トイレに身を滑りこませた。そこには運良く誰もおらず、ほっと息をつく。タイル張りの壁に寄りかかって目を閉じていると、少しずつ動悸がおさまってくる。それでもまだ心臓は早鐘を打ち続けたままで、僕は体の前で組み合わせた両手に力を入れてそれに耐えた。
自分が信じられなかった。何故あんなことを思ったのだろう。暑さのあまりに頭がおかしくなったのだろうか。
でもあの時の自分も今の自分も、間違いなく僕自身だ。あの衝動は確かに自分の中から溢れてきたものであって、誰のせいにもできない。涼宮さんの力の影響?そんなわけはない。彼女がそんなことを望むはずがないからだ。だとしたらあれは疑いようもなく、僕の内側から生まれたのだろう。
深く息をつく。それでも今僕を打ちのめしている驚愕と混乱と、絶望的な思いを吐き出してしまうことはできそうにない。
(──僕は、彼に)
そこまでを考えて、ぶるりと頭を振る。駄目だと思った。たとえ厳然たる事実が目の前にあったとしても、あの時の僕の中にあった意識を言葉にしてしまうことだけは、どうしてもためらわれる。そんな勇気は僕にはない。
(……駄目だ。考えるな。思い出すんじゃない)
そうと思わなくても、頭の中にさっき目にした彼の姿がよみがえって来そうになり、僕は必死に自分の思考を抑えつけた。でもすぐにそれでは逆効果だと思った。これから部室に戻らなくてはならないのに、こんなことではとても平気な顔で皆の前に立てそうにない。
僕は先程の一場面だけを意識の隅へ追いやりつつ、なるべく自分が穏やかでいられるような光景を思い出すことに努めた。たとえば昨日までの夏休みで、五人で旅行に行ったり、昆虫採集という名目で山にピクニックに行ったりした時の、そういう場面だ。ごく普通の高校生と同じように、SOS団の五人が揃って過ごした時間は、僕にとっては今や最も大事な場所であり、守りたいものでもある。
彼もまたその中の一人で、涼宮さんにとっての鍵的存在であるからというだけではなく、いつの間にか皆の精神的な拠り所にもなっていた。
それは僕にしてもまた、彼に対してそう感じている部分がある。
そうだ。彼はそんな風に僕にとってもかけがえのない人物の一人ではあるけれど、それはもっと穏やかで真っ当な感情だ。決してあんな──とても人には言えないような衝動の対象として見ているわけじゃない。





(『眩暈の夏』本文冒頭より一部抜粋)