学校に近づくにつれて、頬を撫でていく風の冷たさを更に感じるようになってきた。北高は山の上にあるので、市街地よりも寒さをおぼえるのが早い。
そういえば、とふと思いつく。彼は寒いのがとても苦手だから、こうやって少しずつ季節が冬に近づいていくのをきっと嫌がるだろう。去年の冬も、登下校時の彼はコートやらマフラーやらで着膨れていて、それを涼宮さんによくからかわれていたものだ。あの様子を思い返すと、何だかとても微笑ましくて──。
「……おまえ、なに朝から一人で笑ってんだよ」
「えっ」
突然かけられた声に反応して横を向くと、いつのまにかすぐ近くに彼が並んで歩いていた。少々怪訝そうな顔をして僕のほうを見ている。
「あ、ああ、すみません。おはようございます」
「はよ。ていうか、何を朝っぱらからにやにやしながら歩いてんだ?はたから見てて気持ち悪かったぞ」
「これはまた手厳しいですね。いえ、ちょっとした思い出し笑いです」
「だからそれが気持ち悪いって言ってんだ。いったい何を考えてたんだよ」
彼がそう言った時、ひときわ強い風が吹き抜けて、周囲の木々の葉を揺らしていった。その勢いに、思わずといった様子で彼が首をすくめる。
「うー……今朝は冷えるよな。もうこれからだんだん寒くなっていくのかと思うと、今からうんざりするね」
「ええ。そうですね」
ついまた笑顔になってしまう僕を見て彼は「何なんだいったい?」と不思議がっていたが、そのまま学校へと続く坂道を歩き出した。僕もまたその隣を歩いていく。
「古泉おまえ、勉強のほうは順調なのか?」
「え?……あ、もしかして受験のことですか」
「もしかしてじゃなくてもそうだよ。ていうか、おまえに聞いた俺が馬鹿だったな。どうせ受験に苦労しそうなのは俺くらいだろうさ」
「そんなことはありませんよ。何校かは受けるつもりですが……中にはかなり倍率が高いところもありますし」
「俺もだ。年明けからはもう慌しくなっちまうのかね」
入学試験の時期には学校の授業もほとんどなくなってしまうから、当然登校する機会も減るだろう。そのことを考えると、緊張よりもむしろ寂しさを感じてしまう。受験の難易度がどうこうといった話ではなく、必然的にSOS団のメンバーで集まることが少なくなってしまうからだ。
(あと何回……)
「今はもう、目の前の勉強を頑張るしかないですね。春には無事に全員でよい結果を出したいものです」
「それはどう考えても俺が一番頑張らないといけないんだよな。今からもう気が重いぜ」
「きっと大丈夫ですよ。あなただって、模試の点数はかなり上がっているじゃありませんか」
僕が言うと、彼が少し意外そうな表情でこちらを見た。
「なんだ、よく知ってるな。ま、目標ラインにはまだまだ足りてないんだけどな」
「……ええ、まあ。皆さんの様子くらいは、きちんと把握していますよ」
ふと乱れそうになる鼓動をおさえながら、僕は可能な限りいつもと同じトーンの声で答えた。
ふーんそうか、とつぶやきながらまた吹き降ろしてくる寒風に身をすくめる彼を見る。僕の答えに特に疑問を持った様子のない彼の表情に安堵しつつも、胸に広がっていく苦さを消し去ってしまうことはできないでいた。
どうしても思ってしまうのだ。
──いったいあと何回、こうして彼の隣を歩くことができるのだろう。
この高校を卒業したとしても、同じSOS団の団員としての彼とのつながりが切れるわけじゃない。それでも違う学校に行くのだとしたら、顔を合わせる機会は格段に少なくなる。たまの休日にまた皆で集まるようなことはあるかもしれないけれど、そう頻繁にあるものでもないだろう。それを考えると、どうしようもなく苦しくなる。
決して口に出すことはできないし、伝えようという気もない。
それでも僕は彼のことを、涼宮さんを大事に思う気持ちと同じくらいに、特別な存在として慕わしく思っていた。
彼と涼宮さんが口喧嘩をしつつも息のあった様子でいるのを見るたび、とても微笑ましく感じるし、彼女が幸せでいてくれるのは嬉しい。
でもそれと同時に、彼にこちらを見て欲しいとも思ってしまうのだ。
きっとこんな感情は、生まれなかったほうが良かったのだろう。そうでなければ、涼宮さんとそれにまつわる僕の事情を知ってくれている貴重な同性の友人として、純粋に彼のことを仲間として好きでいられたのだろうと思うから。
(それでも……)
「おっ、と悪い」
隣を歩いていた彼が少し僕の側へ寄りすぎてしまったのか、軽く肩がぶつかった。
「いえ」
いつも思うけどこの道は歩道が狭いよな、とつぶやきながら、彼が僕の一歩前を歩いていく。
僕はその背中を無言で見つめることしかできないでいた。
──あんな、ほんの少しの接触にさえ胸が騒いでしまう。
この感情を自覚した時から、どれだけその心を否定したいと思ったかしれない。でも頭で何か理屈を考えるよりも先に、僕は今のような彼とのささいな接触に動揺してしまったり、ふと彼が向けてくれる柔らかい表情に魅了されてしまうのだ。どんな風に自分に言い訳をしようとしても、無駄だった。
この気持ちを彼に伝えることはできない。僕のこの感情は誰のためにもならないし、誰も幸せにはならないだろう。
(でも……ただ僕が、自分ひとりの心の中で想っているだけなら)
そのくらいなら、許されてもいいだろう?
高校を卒業して、今のように日常的に彼の近くにいる機会がなくなったら、僕も自分の感情に整理を付けられる日がくるのかもしれない。
離れたからと言って彼のことをそう簡単に好きでなくなることも、忘れることもできそうにないけれど、いつか時間が全てを解決してくれるだろう。
今の僕にできるのは、それに期待することぐらいだった。


(中略)


(涼宮さんに、何かあった……?)
車窓を流れていく景色を、見るともなしに眺める。周囲の建物はしだいに日没のオレンジ色に染められていこうとしていた。
速いスピードで通り過ぎていくそれらの光景を目にしているうちに、僕はひとつの考えに思い至った。
機関のことはいい。そちらはともかく、涼宮さんのことについてだ。
(もしかすると僕は、考え方を誤っていたんじゃないのか……?)
「お客さん、この辺でいいんですかね?」
「……えっ」
タクシーの運転手に声をかけられて我に返る。気がつけばもう車はすぐ最寄の交差点に差し掛かっていた。
「あ、ああ。すみません。はい。そこの横断歩道を越えたあたりで降ろしてください」
支払いをして車を降り、タクシーが走り去った後で僕は正面に見える高層マンションを見上げた。
筋道だった説明ができるのかどうかわからないけれど、今の僕が助言を求められる相手は他に思いつかない。
エントランスにあるインターフォンで、部屋番号のボタンを押す。
『──はい』
「古泉です」
『今、開ける』
静かに開いた自動ドアをくぐり、僕は目的の部屋──長門さんの住む一室へと足を向けた。

部屋の前にたどりつき、横の壁にあるインターフォンに手をかけたところで、音もなく扉が開いた。
開かれたドアの向こうから、学校にいる時と同じように制服姿の長門さんが、こちらを見上げている。
「入って」
「──はい。お邪魔します」
先に廊下を歩いていく彼女の後ろに続き、広いリビングに足を踏み入れる。
長門さんの部屋自体には、僕ももう何度も来たことがあった。だがそれはあくまでもSOS団のメンバーと共にであって、一人でここを訪れたのはこれが初めてだ。
「……どうぞ」
そう言って長門さんがテーブルの前に座るよう薦めてくれたが、僕はあえて首を横に振った。そう長居をするわけにもいかないだろうと思ったからだ。
「突然お伺いして申し訳ありません。ただ、どうしても長門さんにお尋ねしたいことがあったんです。……明日、学校でお会いするまで待つことができなくて」
「いい。質問とは、何?」
いつもと全く変わらない、淡々とした声が僕に問いかける。
僕は一度だけ深呼吸をして、短い質問を投げかけた。
「……長門さん。涼宮さんの力は、消えてしまったのですか?」
経緯をあえて省略し、事実のみを尋ねた質問だった。説明のつかないこともある。だが僕が得たい答えはこれだけで充分だと思ったからだ。
ほんの少しの間、長門さんの透明な瞳がこちらを見る。その奥に何があるのかは僕にはわからない。
それから、彼女は静かに口を開いた。
「涼宮ハルヒの力は失われていない。今も同じように存在している」
──僕は、その答えを頭の中でゆっくりと咀嚼した。

(やっぱり、そちらのほうだったのか……)
さっきのタクシーの中で気がついたことのほうが、正しかったということなのだ。
すなわち、消えてしまったのは涼宮さんの力ではない。
(僕のほう、なのか)
──能力を失ったのは、僕のほうだということだ。
そうとしか考えられない。






(『The end of the world 』本文より一部抜粋)