望むのはあなたのそのすべて


軽くドアがノックされる音を耳にして、僕は部室の入口のほうを振り返った。おそらく彼だろう。そろそろ戻ってくる頃だろうと思っていたけれど、タイミングもちょうど良かった。
「どうぞ」
ドアの外に向かって声をかけると、予想通り開いた扉の向こうから彼の顔が覗いた。
「何だ古泉、お前だけか……って、どうしたんだその格好は」
僕の姿を見た彼が、怪訝そうな顔で問いかけてくる。まあ、そう思うのも無理もない話だろう。
「これですか?今度のパーティーの衣装だそうですよ」
「今度の……週末のアレか」
「ええ、そうです」
「──お前もご苦労なこった。しかしまあ、たいがいハルヒが好きそうな行事だよな。ハロウィンとかって」
十月も下旬を迎えて、朝晩はしだいに肌寒さを感じる季節になってきたが、この時期に思いつく大きな行事といえば、ハロウィンだ。本来はキリスト教に絡んだイベントのはずだけれど、クリスマスなんかと同じような感じで、めいめいに仮装をするという形式的な部分だけが、日本でもしだいに浸透しつつあるように思われる。そしてそういう華やかな行事を大変好むのが、他でもない我らがSOS団団長であるところの涼宮さんだ。
今週末には、鶴屋さんの協力を得て、あのお屋敷を舞台としたSOS団主催のハロウィンパーティが開かれることになっている。今月の初めから涼宮さんの発案のもと企画されてきたイベントだったが、ついに当日が迫ってきた、というわけだ。機関の思惑としては鶴屋さん自身をSOS団と関わらせすぎることに難色を示す向きもあるが、今回のように純粋に涼宮さんの娯楽の一環としての行事であれば、そうした背後関係を特に懸念しなくてはならないほどのこともないだろう。それにこういったイベント事を盛り上げようということに関しては、涼宮さんと鶴屋さんは非常に意見が合うらしく、むしろ積極的に意見を交換し合っては二人で盛り上がっていたものだ。
今、涼宮さんはその準備のために校内外を問わず奔走している最中だ。ここ数日の放課後はずっとそんな調子だった。もちろん朝比奈さんと長門さんはその道連れになっている。その間、僕は一人部室で留守番をしつつ、涼宮さんから仰せつかったある指令に応えていたところだったのだが……。
「お前の着てるの、それは何の衣装なんだ?えらく凝ってるみたいだが」
部室の長机の上にカバンを置いた彼が、僕の衣装を興味深そうな眼差しで見やってくる。僕は身にまとったマントを軽く持ち上げてみせた。黒い表地が翻った拍子に、内側の真紅の裏地が目に入る。
「どうやら僕の役どころは吸血鬼、のようですね」
「吸血鬼ねえ……」
いまの僕がしている服装は、そのパーティーで身につけるようにと涼宮さんから渡された衣装だ。仕立ての良い黒の燕尾服に白のシャツと蝶ネクタイ、それに手袋までついている。更に同じく黒のシルクハットとエナメル靴まで用意されていると言う有様だった。もちろん吸血鬼のイメージ通りに、大きな襟を立てたマントも欠かされていない。黒の表地に、裏打ちされた真紅の対比が目に鮮やかだった。正確な採寸をしたわけでもないのに、与えられた衣装がやたらと僕のサイズにぴったりなのは、おそらく鶴屋さんを通じて、機関の手が関わっているからに違いない。
僕の衣装に関してでさえこうなのだから、普段からコスプレ要員として愛でられている朝比奈さんの衣装は、きっと恐ろしく気合の入ったものになるに違いない。
そのパーティ用の衣装をなぜ僕が今わざわざ身につけているのかという理由については、少し時間をさかのぼったあたりの話になる。彼が部室にやってくる少し前、涼宮さんが朝比奈さんと長門さんの二人を連れて出て行く時に、僕にこの衣装を渡し『今のうちにサイズが問題ないか試しに着ておいてね!』と言って去っていったのだ。まあサイズについては幸いなことに問題ないようだ。一晩だけのイベントのために用意された衣装とは思えないほど、きちんとした作りのものだったので、着心地も悪くないし、動くにも不自由はない。あとは僕のこの姿を彼女が気に入ってくれれば良いのだが。
「あと当日はもう少し、特殊メイク……とまでは行きませんが、小さく牙のようなものを付けたり、とかもするようですよ」
「えらく本格的になってきたな、おい」
「やると言ったらとことんまでこだわるのが涼宮さんですからね。ところでどうです?僕のこの衣装は。おかしくないでしょうか?」
そう尋ねると、彼はあらためて僕の姿を上から下まで眺めたあとで、おもむろにつぶやいた。
「──何つーか、おかしいと言えば全部おかしいし、おかしくないと言えばおかしくないし」
「何ですか、それ」
複雑な表情で言う彼の言葉に、僕は苦笑せざるを得なかった。でも、何となく言いたいことはわからなくもない。
「……似合ってはいるんじゃねえの。でもそれが似合うっていうのもなあ……」
「さすがに僕もこんな服を着たのは初めてですよ。マントが加わったりとか、ちょっと例外な部分もありますが、中の燕尾服とかはちゃんとした正装ですし、これはこれで貴重な機会と言えるのかもしれませんね」
「お前、わりと楽しそうだな」
「ええまあ、そうですね。せっかくのお祭りですから、楽しめるものならそうしたいところです」
そういえば彼が何の衣装を着るのかは知らされていないが、この分ではそちらも涼宮さんの意気込みが充分にあらわれたコスチュームがあてがわれることだろう。僕としてはその姿を見るのが、当日の一番の楽しみと言えるかもしれない。
「──ところで、こういう時にはやはり例のあのセリフを言ってみるべきなんでしょうか」
「何だ?」
「お菓子をくれないと、悪戯……」
「どちらも却下だ」
問答無用とばかりにぴしゃりとはね付けられる。くすりと笑う僕に、彼が苦々しそうな顔でぼやいた。
「何が『お菓子をくれないと』だ。だいたいお前はそんなに甘いものが好きじゃなかっただろ」 「そうですねえ、少しならいいですけど、そんなに量は食べられませんね。……ああ、でもせっかくこの衣装なんですから、もっと違うことを願ってみるとしましょうか」
頭の上のシルクハットを脱ぎ、汚さないように机の上に置く。それから僕は彼に向き直り、そっとその手を取った。
「―――おい」
「……僕は、あなたの血が欲しいです」
僕は少し身をかがめて、彼の左手にうやうやしく口付けた。心底嫌そうな顔をされたが、それでも手を振り払われないだけ、充分な進歩と言えるだろう。
「あなたの血ならば、きっと美味しいのでしょうね」
「……何で」
「だって、あなたはいつ触れてもとてもいい匂いがします。肌も髪も吐息も全部……そうですよ。だからそんな風に思ってしまうんです」
身を起こしてその目を見つめると、その中に複雑な表情が揺れているのがわかる。
そこにあらわれる物の全てを、手に入れたいと思った。自分は何と強欲な人間だろう。
「僕はあなたの血と、肉と、──魂が欲しいのです。全てを与えてほしい。僕に、あなたの全部を……許してほしい。これ以上他に何も望むことはありません」
そう言うと、彼は少しの沈黙のあとで、僕から目をそらしてつぶやいた。
「……『これ以上他に』とか言うわりには、ずいぶん規模の小さい願いだな」
「そんなことはありません。今僕が望んだことは……僕にとっては、まさにこれ以上ない贅沢です。他とは比べものにならないくらいの、ね」
彼は自分の真価が一体どれほどのものなのか、決して理解しようとはしてくれない。この人の心を得たいと願うのは僕だけではないのだ。涼宮さんばかりではなく、長門さんや、朝比奈さんだってそうだろう。涼宮さんの持つ能力を左右する『鍵』としてだけではなく──もちろん、最初はそれがきっかけだったことは否定しないが──僕たちは今や、ひとりの個人としての彼に心からの好意を感じ、特別な存在として接している。そういう自分を認めないわけにはいかない。
「だいたい、吸血鬼って、お願いして相手の血を吸うイメージじゃないな」
もっとこう、寝込みを襲ってかぶりつくような感じじゃないのか、と彼が言う。不意打ちを仕掛けられた時の彼の反応も、想像するだにそれはそれは魅力的なものだと思ったが、僕の真の望みはそこにはない。
「そう言うシチュエーションも趣がありますがね、それでは駄目なんですよ。あなたが……あなたから、許して下さるのでなければ、駄目だ」
無理矢理奪っても、そんなことをしてもどうにもならない。彼の心は手に入らない。だから僕は自分の手札の全てを晒し、彼にゆだねる。
選択権はいつも彼にあるのだ。
僕のこの手を受け入れるか、拒絶するのか……選ぶのは、彼だ。
僕はまるで審判を待つ咎人のような思いで、彼の顔を見つめた。
これは身に過ぎた望みだと、僕はよく知っている。
それでも願わずにはいられない。
どうか。
どうか僕を選んでくれはしないかと。

無言で答えを待つ僕の目を、彼は、苛立ったような、もしくは戸惑ったような表情でしばらく見ていたが、それに耐え切れないとでも言うかのように、ふいと横を向いて、
「……お前の、好きにしたらいいだろ」
と、苦々しげにつぶやいた。

僕は卑怯だ。こんな風に彼から許しの言葉を引き出しては悦に入っている。彼が自分からこんな台詞を口にするのをためらうことなんて、よくわかっているのだ。言葉じゃなくても態度で分かれと、きっと彼はそう思っているに違いない。
でも僕は彼の声で聞きたいのだ。
僕を選んで、受け入れるのだと言ってほしい。
他でもないその唇で。

触れていた彼の手に、自分の指を深く絡める。そしてゆっくりとその体を引き寄せて、正面から抱きしめた。
「──おい」
「涼宮さんたちが帰ってくるまでで構いません。……どうか少しだけ、このままでいさせて下さい」
彼は黙って僕の言うようにしていてくれる。そのことが僕にとってどれほど幸せなことか、彼はわかっているのだろうか。
身につけている衣装のせいで、こうやって彼を抱いていると、マントでその体を包み込むような格好になる。それがすっかり彼の姿を隠してしまうのを目にして、僕はそれがまるで自分の欲望を表したかのようだと思った。
本当は、誰の目にも触れないようにして、自分だけのものにしてしまいたい。
神様からも他の全てからも目の届かない、そんな場所がもしあるのなら、
僕はそこに彼を連れて行ってしまいたいのだ。


その時、背中に温かなぬくもりが重なるのを感じた。彼がその手を僕の背に回してくれたのだと気付いて、僕はなおいっそう強い思いを込めて、彼の体を抱いた。
僕の肩口に顔を伏せた彼は、何も言わない。
でもこうして触れ合っていられるこの時間が少しでも長く続けばいいのにと、そう思う気持ちが、彼も同じだったらいい。
そんなことを考えながら、僕は彼の髪に頬を寄せ、静かに目を閉じた。