君を待つ間

十二月の下旬ともなると、本当に日が落ちるのが早い。まだ時間は午後四時を回ったばかりだと言うのに、カーテンの隙間から覗いた外の風景は、夜の濃い闇の中に沈んでいた。街灯の明かりが照らす中、葉を落とした街路樹が、吹きつける風になぶられてはその枝を揺らしているのが見える。
振り返った部屋の中は、外のそれとは対照的に明るい。室内を照らし出した蛍光灯は、その光で部屋の隅々までを満たしながら、それでいて目に優しい明るさに保たれている。眩しすぎず、柔らかい色調の白い壁、塵ひとつなく清掃された薄茶色の床、その他はやはり同じく白色で統一された作り付けの棚があるくらいの、過不足のない部屋だった。
その充分な広さ持つ部屋の中央に、ベッドが一台だけ置かれている。

広い病室のベッドの上で、清潔な白いシーツと布団に包まれて、彼が眠っていた。


僕は彼のその姿を見て、また、心臓が握りつぶされるようなあの感覚を思い出した。
音を立てないように、そっとベッドの傍へ近付く。見下ろした彼の表情はとても静かで、こうやって見ていても本当に眠っているだけのようにしか見えないくらいだ。それならばどんなに良かっただろうと願ってみても、現実はそんな空想にすがることすら許してはくれない。
僕はただ、横たわる彼の前で、立ちつくすことしかできなかった。





その事件は、今日の昼を過ぎたぐらいの時間に起こった。
僕たちはいつものようにSOS団の部室に集まり、それぞれが普段のポジションにおさまって、団長である涼宮さんの話に耳を傾けていた。
『……ということなのよ。だからね、今度の二十五日はSOS団で子供会のゲストとして出演することに決まってるから。前途有望な子供たちにSOS団の雄姿を見せるまたとないチャンスよ。気合入れて行かないとね!』
その日涼宮さんが言い出してきたのは、ちょうど来週にあたる十二月二十五日のクリスマスの日に、彼女の家の近くで開かれる子供会の行事へSOS団で参加しよう、というものだった。どうやら以前入手した朝比奈さん用のサンタ衣装を有効活用すべく、思いついたものらしい。
彼女の計画では、その衣装を身にまとった朝比奈さんが子供たちにプレゼントを渡してまわっていく、というものだったが、性別の違いはともかく、さぞ可愛らしいサンタクロースができあがることだろう。
だが涼宮さんの立てた企画はそれだけに留まらず、「サンタらしさ」をより演出するために、他の団員がトナカイに身を扮して彼女を運び、更に雰囲気を盛り上げよう、という話だった。
涼宮さんの言うように、朝比奈さんを「背中に乗せて運ぶ」となると当然その候補となる人間は限られる。涼宮さん自身はもちろんありえないだろうし、長門さんは実際には出来るだろうが、あの華奢な見た目をした彼女にそのような役目が振られるとはとても思われない。
そうなると必然的に、その配役は僕か彼かに限られるのだが──こうした場合、高確率でその任を命じられることが多い彼が真っ先に抗議した。
『おいハルヒ、何でわざわざトナカイが登場しなきゃならないんだ。だいたいどう扮装したところで、情けない鹿程度にしか見えやしないに決まってるだろ』
『何よキョン、一年に一度のクリスマス、っていう子供たちの夢の行事を少しでも華々しく演出してあげようっていう団長の意図がわかんないの?そんなだからあんたはいつまでたっても平団員どまりなのよ』
『平団員で結構だね。だいたい華々しくとか言って、単におまえがそれに乗じて騒ぎたいだけだろうが。ともかく、トナカイに関しちゃ俺はごめんだぞ』
『別にまだあんたがやるって決まったわけじゃないでしょ、古泉くんもいるんだし』
『あのなあ、こういう場合俺にそのお鉢が回ってくる可能性がべらぼうに高いんだってことぐらい、考えなくたってすぐ想像つくんだよ!』
若干気の毒な気持ちにさせられる彼の主張を容れてだろうか、涼宮さんはトナカイ役をクジ引きで決めることにしたらしい。だがその結果、やはりと言うべきか、その役目に決まったのは僕ではなく、彼だった。果たしてそのクジに涼宮さんの無意識の力が働いたのかどうかは定かではない。心底うんざりした様子の彼と、満足そうに笑う涼宮さんの顔を交互に眺めながら、僕はそんな二人を微笑ましく、──眩しい想いで見つめていた。
それから僕たちは、トナカイの衣装は行事のある日までに自分たちで作成しよう、ということで、涼宮さんの号令のもと街へ材料の買出しに行くべく、部室をあとにした。

……事件が起こったのは、その時だ。
本校舎よりも古い部室棟の階段を、出口に向かって僕たちはゆったりと歩いていた。先頭には楽しげにクリスマス会の計画を話す涼宮さん、その隣にはそれを聞きながら困ったような様子を見せる朝比奈さん、その少し後ろに長門さんと、次に僕、一番後ろには彼がいた。
ひと足先に目の前の階段を降りきった涼宮さんたちが、踊り場を通り過ぎて更に下の階へ向かい、その姿が僕から見えなくなったちょうどその時、
――僕は、自分の横を何かがものすごいスピードで通り抜けていくのを感じた。
それが何かと考える暇もなかった。ただ、無意識にそちらへ伸ばした指先が、わずかにその服をかすめていった感触だけはよく覚えている。
次の瞬間、僕の目に映ったのは、彼が階段を転がり落ちていく姿だった。そして彼は、眼下に広がる踊り場に鈍く大きな音を立てて頭から激突し、……動かなくなった。
本当に、あっという間の出来事だった。
僕はあの、全身の細胞が凍りつくような衝撃を、生涯忘れないだろうと思う。



『――キョン!!』
彼は、静かな部室棟の全てに響き渡るのではないかと言うほどの音を立てて、頭から踊り場に落ちたのだ。
停止していた僕の思考がそのことをはっきりと認識したのは、振り返った涼宮さんが彼の名を叫んだ、その声を聞いた時だった。
『うそ、キョ、キョンくん、キョンくん……!』
『……っ、ダメよみくるちゃん、揺すったらダメ!頭から落ちたのよ!』
両目からぼろぼろと涙を流しながら彼に縋って泣く朝比奈さんを、涼宮さんが叱咤する。しかしその彼女の表情もまた同じように青ざめており、色をなくしていた。
僕もまたその側に駆け寄り、彼女たち二人と、ぐったりと横たわる彼の顔を見下ろした。まともに打ちつけたらしい後頭部を見る。出血はない。目立った外傷も見当たらない。だが彼のまぶたは硬く閉ざされたままで、目を覚ましそうな様子は全くなかった。
何も考えられなかった。
いったいなぜこんなことが起こった?彼はどうしてこんな風に階段から落ちて、……いや、今はそんなことを考えるべきじゃないんだ、僕は今いったいどうしたら良いのか、何を、何をしたら。
その時、ブレザーの右袖が小さく引かれるのを感じ、はっとして振り返る。そこには長門さんがいて、常と変わりのない静かな瞳で僕のほうを見ていた。
『救急車を呼ぶ。あなたがたは彼についていて』
『……あ、はい!』
僕はとっさにそれだけを返した。今考えても、あれは脳に言葉が届く前に、反射的に答えたものだったようにしか思われない。言われたその言葉を理解する、ただそれだけのことさえその時の僕には困難になっていたのだ。
返事を聞いてすぐに携帯電話を取り出して連絡をとる彼女の姿を、僕は呆然と眺めていた。
長門さんの冷静さに感謝するとともに、とっさにそれを出来なかった自分に関しては、本当に忸怩たる思いしか残らなかった。同年代の高校生とは異なり、特殊な環境に身をおいて、幾多の非常事態にもある程度は対処できるだろうなどと考えていた今までの自分に、頭から冷水を浴びせかけてやりたい気分になる。どんな経験をしていようと、こんな時に役に立たないで、何の意味があるというのか?
しかしそんなことを考えていたのは一瞬で、僕はまた彼の姿に目を移した。あいかわらずぴくりとも動く様子がない。
その顔を見て、また呼吸が困難になるほど胸が痛む。冷えたまま早鐘を打ち続ける心臓が、今にも潰れてしまいそうだと思った。
感覚をなくして痺れていく指先が、無意識のうちにポケットを探る。そこにあったのは……自分の携帯電話だ。 そこでようやく僕は、今自分がこの場でなすべきことに思い至った。
『涼宮さん、僕は親戚に病院の手配をしてもらいます。少しでも受け入れ態勢が整った場所を用意してくれるようにしますから』
僕の言葉に彼女が硬い表情で頷くのを見てから、その場を少しだけ離れる。他の二人はともかく、涼宮さんがいる前でこれから先の会話をするわけにはいかない。
改めて思い出すまでもなく、条件反射のように指が覚えている短縮ボタンを操作する。短いコール音のあと、すぐに相手は電話に出た。
『はい』
『古泉です。――申し訳ありません、実は、彼が今……』




ほどなく到着した救急車に全員で乗り込み、僕たちはその病院へと向かった。
たどり着くとすぐにストレッチャーに乗せられた彼は、しかるべき治療を受けるために、検査室のドアの向こうへ消えていく。廊下に立ちつくした僕たちから彼のその姿が見えなくなった時、朝比奈さんはその場にへたり込んで、またぽろぽろと涙を流した。横にいる涼宮さんもまた、泣きこそはしなかったが、真っ青な顔で両手を握り締めていた。その二人の姿を見て、僕はまた胸が締めつけられるような思いを味わった。
気付くと、僕の横には長門さんが立っていた。いつもと全く変わった様子がない彼女の超然とした態度が、こんな時にはむしろ救いであるように思えてならない。僕は彼女に、さっき冷静な対応をしてくれたことについて心からのお礼を伝えた。
『それはいい』
動揺など微塵も感じさせない、落ち着いた声音が答える。
『あなたは、大丈夫?』
『……え?』
『ひどい顔をしている』
そう言ってこちらを見上げてくる彼女の濁りのない瞳を、僕はただ見つめ返すことしかできないでいた。闇がたゆたう夜の湖のような、柔らかく深い目の色だった。



自分のことなど、僕にはどうでもよかった。ただ、彼があんな風に傷つき、意識すら失うだなどという事態が起こるなんて、想像もしていなかった。機関に属する自分や、TFEIである長門さん、未来から派遣されてきた朝比奈さんが何らかのトラブルに巻き込まれるならともかく、彼は本来ならば本当にただの一般人だ。平和な日常生活を送るべき人なのだ。
涼宮さんに選ばれた人間として、知らぬ間に特別な位置を占めているとしても、それは僕らのような、涼宮さんを取り巻く組織の思惑に過ぎない。彼自身は、普通の高校生だ。
だからそんな彼が傷つくことなど――決して、あってはならないことなのだ。……それなのに。
今回のことはただの事故なのかもしれない。少なくとも今わかっている限りでは、機関の急進派だったり、いつぞやの朝倉涼子のように情報統合思念体の一部が動いたなどという情報は入ってきていない。だから、彼が何者かに意図的に危害を加えられたという可能性は低い。
でも僕は、思っていたのだ。
彼の身に何か不測の事態が起こったときは、僕が彼を守るのだと。
自分にそれが出来ると――思っていた。しかし現実はどうだ?
すぐ側を転落していく彼の身体を、支えることすらできなかった。とっさに身を呈して庇うこともだ。もしも今あの瞬間に戻ることができたら、僕はためらいなくこの身を投げ出して彼を守るのだろうに。そんなことを考えてみても、もちろん時間は巻き戻ってはくれない。
そして、長門さんのように瞬時に冷静な対応をすることも出来なかった。もちろんその後で機関に手配をし、設備の整ったこの病院へ彼を搬送させるようにすることはしたが――自分が何と小さく、無力な存在なのかを、強く実感したことには変わりがなかった。
眠るように横たわる彼の表情は変わらない。検査を終えた担当医師は、体の外側にも内側にも、まったく傷とおぼしきものは見受けられないと言った。彼が頭から床に落ちたと言う僕たちの話を聞いて、特に脳に損傷がないかどうかは念入りに調べてくれたそうだが、脳波などを含め何もかもに、これと言った異常は見つからなかったという。
先程まで駆けつけて来ていた彼のご両親は、真剣な顔で医師のその説明を聞いていた。僕もそれと同じ話を聞いたが、確かに彼には全く外傷の一つもなく、表情も、眠っていると言われれば信じてしまいそうなほど静かだ。
ただそれでも、彼は目覚める気配を見せようとはしなかった。



「……古泉くん、いる?」
「――涼宮さん」
病室の入口のドアを静かにスライドさせて、涼宮さんが外から小さく僕の名前を呼んだ。僕は彼の様子をうかがいながら、物音を立てないようにそっと廊下へと出ていく。そこには、涼宮さんと朝比奈さんが並んでいた。長門さんの姿はない。
病室からは少し離れた待合スペースへ移動し、三人でソファーに腰掛ける。僕と向かい合わせの位置に座った涼宮さんは、強い意志を持った瞳を僕に向けて言った。
「古泉くん、あたしからお願いがあるの」
「……なんでしょう?」
「この病院は確か、古泉くんの叔父さんが……理事長さんなんだって言ってたわよね?」
「ええ、そうです」
涼宮さんにはそう話していたが、実際はもちろん異なり、この病院は機関の息のかかった施設の一つだった。ただし医療技術に関しては一流であり、彼の治療に全力を傾けてくれるという点には疑いがない。
僕の答えを聞いて、彼女はわずかに唇を噛みしめたように見えた。そして次の瞬間、真剣な表情で、こう告げた。
「古泉くん、あたし……あの、キョンの部屋に、泊まりこむことって出来ない?」
僕はそれを聞いて、返す言葉を失った。横にいる朝比奈さんも同様だ。
何も言わない僕を見て、涼宮さんはさらに続けた。
「ここが完全看護の病院なんだってことは知ってるわ。さっき聞いたもの。そういうところでは付き添いとか、普通は出来ないんでしょ。……もちろん、古泉くんの叔父さんの病院を信用してないわけじゃないわよ?突然運ばれてきたキョンに、あんな立派な部屋を用意してくれるくらいだもの。充分気を配ってくれてるんだってこと、あたしにだって分かるわ。――でも」
まるで溢れ出てくるような言葉を一度飲み込んで、彼女はまた僕の目を見た。
「でも、あたしは近くで見ていてやりたいの。だって、団員の面倒を見るのは、団長の務めだもの。これだけは他の人に任せられないわ。だから、どうか、お願い……!」
そう言って、彼女は――僕に向かって、深く、頭を下げたのだ。
神的存在である彼女が、一介の能力者に過ぎない僕に。
僕は、呆然としてその光景を見ていた。同時に横から、朝比奈さんがかすかに息を呑む気配がしたのを感じた。
こんなことは、決してあってはならないのに。
「涼宮さん。……どうか、頭を上げてください」
僕がそう促すと、彼女はゆっくりとその顔をあげてこちらを見た。いつもの溌剌とした表情は消え失せ、その代わりに、縋るような悲痛な眼差しが僕に向けられている。普段の、明るさにあふれた彼女をよく知っているだけに、その落差はあまりにも痛々しくて、僕はそれ以上彼女の目を見ていることができなかった。
「お気持ちはよくわかりました。これから、叔父に相談してみます。まだ分かりませんが、きっと良いようにしてくれると思います。だから、待っていて下さい」
「――わかったわ。無理を言って、本当にごめんなさい……」
また頭を下げようとする彼女を押しとどめて、僕は彼女たちを残してその場をあとにした。
向かう先はもちろん『理事長である叔父』などのところではない。最初からそんなものは存在しないのだから当たり前だ。そのかわり僕が足を向けたのは、病院の上層階にある院長室だった。
華美ではないながらも頑丈に造られたドアをノックすると、その向こうから「入りなさい」という声が聞こえる。
「……失礼します」
室内に入ってすぐ目に入る重厚な構えの机と革張りの椅子には、部屋の主として示されている院長の姿はない。しかし室内には一人の人間がいた。
院長の椅子の向こうにある大きな窓を背後にして、その人物は立っていた。その顔がゆっくりと振り返る。
ダークグレーのスーツに細いその身を包み、僕のほうを見たその女性は、森園生。
――機関における、僕の直属の上司だった。
彼に機関での序列を明かしたことはなかったが、彼女は僕が機関へ所属するようになってからずっと、僕の上役として組織とのパイプラインを務める人間として存在していた。夏に催された孤島のイベントではメイドに扮していたが、実際の彼女の任務はこちらのほうだ。機関の中でも少数である能力者と組織との連携を保つことはもちろん、直接には言わないが――その職務の中には、機関の人間で唯一、涼宮さんのごく近くにいることが出来ている僕を監視する役目も含まれているのかもしれない。
僕は歩を進め、机を間に挟むようにして、彼女と対峙した。
「――失態ね。古泉」
「……申し訳ありません」
彼女の言葉に、僕は深く頭を下げた。今回の件で自分が叱責されるのは、当然のことだった。
「言うまでもないとは思うけれど、あなたの役目は彼女の近くで、その精神をいかに安定させるかと言うことにあるわ。そして彼が彼女にとって、いかに影響力を持っているのかということも、よく理解しているでしょう」
「はい」
「彼に何かあれば、涼宮ハルヒがこの世界をどのように変化させるかわからない。無論私たちも常に全力を尽くすけれど、学校内ではどうしても手の及ばない部分もある。特にあなた方五人だけで行動している時には尚更ね。だからこそ、あなたがそこにいると言うのに――」
一旦言葉を切り、彼女がこちらを見る。その厳しい眼差しから目をそらすことは、許されなかった。
「――あなたが側についていながら、いったい、何をしていたの?」

それは、あの瞬間から今までずっと、自分が何度も心の中で繰り返してきたものと同じ言葉だった。
本当にそうだ。涼宮さんばかりでなく、彼女に強い影響を与えかねない人物たち――中でもその筆頭であろう彼を守るためにも、僕はあの場所にいるというのに。彼がどれほど失われてはならない存在であるか、僕はよくわかっている。なのに何故。
どうして僕の手はあの時、彼に届かなかったのだろう。
爪が手の平の皮膚を破るかと思うほどに拳を握り締めて、僕はただ瞑目した。
「……おっしゃる通りです。あの場で彼を守れなかった責任は、僕にあります。どのような処分にも従うつもりです」
それは偽りのない、僕の本心だった。しかし、
「愚かな発言は控えなさい。あなたの身一つで世界の危機があがなえると思っているの?そんなものは、ただの思い上がりに過ぎないわ」
更に容赦のない一言が飛んでくる。僕はただ無言で、また頭を下げた。
彼女はよく知っているのだ。今の僕が、罰されたくて仕方がないのだということを。そして彼女は、そんな許しを与えてくれるほどに甘い人ではなかった。
「あなたに何か処分を下すかどうかは、上が決めることです。あなたの意志によるものではないわ。もしそうなったら、私からあなたに伝えます」
そう言って、彼女はまた窓のほうを向いた。高層階に位置するこの部屋で、今僕がいる場所からは、地上の明かりさえ見えない。透明なガラスを隔てて、光のひとつもない闇が広がるだけだ。
「……さっき、私も彼の容態について聞きました。身体機能のどこにも異常は見られないそうね。今のところ脳にも障害が出ている兆候はないようだし、このまま、目を覚ましてくれればいいけれど」
病室で、静かに横たわる彼の顔をまた思い出す。まるでただ眠っているかのように穏やかで、苦しそうな表情のひとつも見受けられなかった。いつそのまぶたが開いてもおかしくないと思うのに、未だ彼のあの目を見ることは出来ていない。簡単に熱くなったりはしないのに、どこか深く、その奥にある優しさを感じさせてやまない、あの眼差しを。
それを思うたびに、僕はまた自分の体が爪先から凍り付いていくような感覚にとらわれた。
「とにかく、今はもういいわ。下がりなさい」
僕は頷き、それから涼宮さんの「病室に泊り込みたい」という意志を伝えた。彼女はそれを聞き、少し考えた様子のあとで、すぐに首肯した。
「わかりました。手配しましょう。問題はないと思うわ」
「ありがとうございます。では、これから早速涼宮さんにはそう伝えてきます」
そう言って僕は一礼し、彼女の前を辞した。部屋の扉に手をかけたその時、
「古泉、」
「――はい」
かけられた声に再度振り返る。彼女はこちらを向き、静かに僕の顔を見ていた。
「さっきの話を涼宮ハルヒに伝え終わったら、あなたも今日はそのまま帰って休みなさい。それ以上の報告は不要です」
その表情には、先程までの厳しいそれだけではなく、明らかに僕を気遣う色があった。
「自分では気付いていないのかもしれないけれど、今のあなた、とても……ひどい顔をしているわ」
そうして彼女は、長門さんが僕に言ったのと、同じことを口にした。

僕はあらためて退去の言葉を述べ、院長室をあとにした。自分の顔を見ることは、決してしなかった。





彼の病室のある階に戻り、僕は涼宮さんに「叔父から泊まりこみの許可が出ました」と伝えた。それを聞いた彼女は少しだけほっとしたような表情を見せて、優しい目で僕に感謝の言葉をくれた。その顔はどこか儚げで、見ているこちら側を切なくさせるような憂いに満ちていた。僕や朝比奈さんのように、普段の彼女を知っている人間にとって、その印象は尚強いものだったろう。
一度家に戻って仕度をしてくるという涼宮さんと、それについて行くという朝比奈さんを病院の出口で見送ってから、僕はまた彼の眠る病室へ戻った。さっき部屋を出た時とまったく同じに、彼はベッドの上で静かにその身を横たえていた。
ゆっくりと傍らに近付き、その顔を眺める。穏やかな表情だった。なのに、あの優しい眼差しを見ることができないというだけで、僕は自分の胸を掻きむしりたいような強い苦痛に耐えなければならなかった。
その痛みから逃れるように、無意識のうちに彼の頬に手を伸ばす。だが自分の指が触れる寸前で、僕はそれを思いとどまった。
――自分には、それは許されることではないのだ。あの時彼を守れなかったことだけが理由ではなく、それ以前から、ずっと。
伸ばしかけていた手を引き、僕はまた拳を握り締めた。
機関の人間として、神的存在である涼宮ハルヒに強い影響を持つ彼を保護する。閉鎖空間で神人を倒すことだけではなく、彼女らに最も近い場所にいる僕にとって、それは課せられた大きな任務のうちの一つだった。彼を守ることは、ひいてはこの世界を守ることに繋がる。
でも僕が彼を守りたいと思うのは、そうした理由が全てではない。


僕は、彼のことが好きだった。
他の何にも変えられない、ただ一人の人として。



彼に対してそんな気持ちを抱くようになったのは、いつ頃からだったろうか。明確にそれが何をきっかけとしていたのか、はっきりとは思い出せない。
涼宮ハルヒという存在をより近くで観察するために、僕は彼女と同じ高校に転入した。その時期が、転校するというには特殊であったためか、機関の目論見通り首尾よく彼女の目に留まり、連れて行かれたSOS団の部室で――そこで、彼と初めて会ったのだ。
もちろん事前の資料で彼のことはよく知っていた。高校に入学して以来、ある時期から涼宮ハルヒが閉鎖空間を発生させる頻度が目に見えて減ってきている。それは、ある男子生徒と行動を共にするようになってからであることは明らかだ、と報告されていた。
それは機関の発足時から考えてみても非常に大きな出来事であって、上層部だけではなく、そこに所属する人間全ての興味を彼は独占していた。どうやらそれは機関に限ったことではなく、涼宮ハルヒを取り巻く他の組織からも同じであったようで、彼が知ったらきっと気分を悪くするだろうが、彼が生まれてから今に至るまで、ありとあらゆる個人情報が調べつくされていたといっても過言ではない。
SOS団の一員となった僕が、最も彼の近くに位置する人間の一人となってからは言うまでもなく、僕は機関から彼について詳細な報告を求められることになった。その人となり、行動パターン、何より涼宮ハルヒが彼を特別だと認識するに至る要因は何なのか。
それらの問いに、僕が答えられるのはこれだけだった。
『彼はごく普通の男子高校生です。何も特別な能力があるわけではありません』と。


実際それはその通りで、彼はSOS団の中では唯一の、まぎれもない『普通の人間』だった。それでも、僕を含めて特殊だとしか言いようのない周囲の存在を、文句を言いながらもある程度許容しようとすることに関しては……度量の広さ、というものをうかがうことができる、と言ってもよいだろう。
涼宮さんだけは知らないことだが、SOS団に所属しているのは彼以外『全く普通でない』存在ばかりだ。自覚を持たないが神にも等しい能力を持つ涼宮さん、未来から来た調査員である朝比奈さん、情報統合思念体から派遣されてきた長門さん、そして機関から潜入してきた超能力者の僕。
そして、自分も含めて、それら全ての興味がしだいに彼へと向かいつつあることに気がついたのは、いつ頃のことだったろうか。
SOS団は涼宮さんが団長であり、そのほぼ全てのイベントは彼女の発案によって行われる。SOS団を動かすのは彼女であって、それは決して間違いではないのだが、その奥には確実に彼という人の影響が見え隠れしていた。彼が唯一涼宮さんに対して意見できる人間であるということは言うまでもないが、それだけではなく、他の団員全てにとって、しだいに彼の存在が何よりも重要で、替えのきかないものになっていくのを、少なくとも僕はよく理解していた。
彼からはどこか――人の心を自然にそちら側へ寄りかからせていくような、不思議な安心感を覚えさせられるのだ。
涼宮さんは言うに及ばず、朝比奈さんや長門さんまでも、彼に対してはそうであるようで、わざわざ口に出さずとも、彼女たちの中では彼に対する信頼感がしっかりと作り上げられているのがわかる。
そしてそれはいつの間にか、自分の中にも存在している感情と重なった。
もちろん僕は男なので、彼は彼女たちにするような態度で僕に接するわけではないが、それでも彼は僕に対してさえ、充分にやさしい人だった。
口では鬱陶しがられることもあるし、邪険な扱いをされることも枚挙にいとまがないはずなのだが、それでも確実に感じてやまないことがあった。

――この人ならば、きっと、自分を許して受け入れてくれる。

誰かに説明してわかるような、明確な言葉にすることはできない。だが、もしも彼以外の他の三人にそれを聞いたとしたら、この感情を理解してもらえるのではないかと思う。……おそらく、そんな質問をしてみる機会は来ないのだろうけれど。
でもきっと僕たちが彼に対して感じるものは、間違いなくそれなのだと思った。
少しずつではあったけれど、そのことを意識するようになってから、僕の中で彼が『涼宮ハルヒの鍵』としてだけではなく、純粋に自分自身にとって大事な存在になっていくことに気付いた。
そして、自分がどれほど『受け入れてくれる人』に飢え、それを求めていたのかということを、知った。



気付けば、なかば無意識のうちに家路をたどり、病院から自分の部屋まで帰ってきていた。あの病院に行くのが初めてではなかったからこそ、できたことなのかもしれない。機関絡みの件で――主にあの閉鎖空間で負傷するような事態が起こった時は、治療はもっぱらあの病院で行われていたからだ。
鍵を開け、玄関の明かりをつけると、脇にある靴箱の上に置かれた折り畳み傘が目に入る。それは昨日の帰り道で、彼が僕に貸してくれたものだった。

その日は涼宮さんが女性二人を引き連れて先に出て行ってしまったので、僕と彼はしばらくいつものようにゲームをして過ごした後、二人で帰った。冬の夕方は空も暗く、風も冷たかったが、僕は彼と二人で過ごすことのできる時間が持てたことに、内心で喜びを感じていたものだ。
そんな中、学校から続く坂道を下る間に雨が降り出してきた。僕はあいにく傘を持参してはいなかったが、彼は用意よく折りたたみの傘を持っており、それを差して歩くことになった。せめてものお礼にと思い傘は僕が持ったが、男二人で一つの傘に入っていることだとか、僕が傘を持つほうが都合よく歩ける彼との身長差などに関して、彼が面白くないと思っているのが表情からありありとうかがえて、僕が苦笑しそうになったのは仕方がないことだろう。
途中から自転車で帰宅する彼は、駐輪場まで来たところで彼に傘を返そうとする僕に、再度傘を押し付けながらこう言った。
『俺はチャリだから別にいい。お前が持ってけ』
『でも、あなたが濡れてしまうでしょう』
『もう止みそうだからどうってことねえよ。じゃあまた明日な』
そう言って、僕の反論を待つ前に彼は自転車を漕いでいってしまった。 確かに雨はもう小降りになっていたし、自転車であればさほど濡れることもないのかもしれない。それに、SOS団の他の誰が相手であっても、彼はきっと同じことをするだろう。それでも僕は彼の優しさが嬉しかった。 アスファルトが濡れて、きつく雨の匂いが漂う。
彼の走り去ったあとの道を、僕は離れがたい気持ちでしばらくそのまま眺め続けていた。


借りたこの傘は、今日彼に返そうと思っていた。だが昨夜は急に機関からの招請――幸いなことに閉鎖空間の発生ではなかった――があり、明け方に帰宅してからあまり間をおかずに登校しなくてはならなかったため、玄関に用意していたにも関わらずそれを忘れてしまったのだ。
雨のそぼ降る中、あの時自転車に乗って帰っていった彼の後ろ姿を、自分は今もありありと思い出すことができる。あれは本当にほんの一日前のことだ。『何気ない日常がどれほど大切なものであったかと知るのは何かあってからだ』とよく言うが、僕はそんなことはずっと前から知っていた。彼やSOS団の皆と過ごすことのできるあの時間が、今や自分にとってどれほどかけがえの無いものになっているかなんて、改めて考えてみるまでもないことだったのだ。
手を伸ばして、そっと彼の傘に触れた。もちろんそれはすっかり乾いていて、昨日降っていたあの雨の名残りなどどこにも感じられない。これを彼に返して、礼を言う自分に彼がそっけなく返事をする。そんなのはいくらでも想像できるようなありふれた場面だ。そのはずだった。
でも万が一、その日が二度と訪れなかったら?
―――思うだけで、吐き気がした。
部屋に上がって、上着も脱がずにソファに腰掛けた。電気だけは点けたが、その他の何もする気が起きない。悪いことばかりを考えてしまいそうになるのは自分の悪い癖だ。でも時間がたつにつれてその度合いはもっと深くなっていってしまう。誰に指摘されるまでもなく、きっと今自分はひどい顔をしているんだろう。
夜が明ける頃には、きっと機関からの定時連絡が入る。彼の容態もそこで報告されることだろう。何もできない自分にはそれを待つことしかできない。
それだけが、こんなにも、つらい。


結局その夜、僕は一睡もすることが出来ずに、朝を迎えた。








眠らないこと自体にはある程度慣れていたつもりだったが、精神的に重圧を負った状態でのそれは体にも更に負担をかけるらしく、朝になっても食欲の一つも湧いてはこなかった。むしろ食べようとしても胃がそれを拒否した。 待ちかねていた機関からの連絡によると、彼の状況は昨日と全く変わりがないということだった。つまり、身体的な異常はどこにも見受けられないが、やはり目を覚ましてはいない――ということだ。
全く耳に入ろうとしない授業を何とかやり過ごし、放課後になったところで僕はすぐに病院に向かった。
エレベーターで病室のある階に到着し、部屋に向かおうとしていた僕の目に、見知った後ろ姿が映った。相手も僕の気配に気付いたようで、振り返ったその顔がこちらを見る。
「古泉くん……」
「ああ、先に来てたんですね。朝比奈さん」
未来から派遣されてきた、頼りなげで常に愛らしい上級生は、僕の姿を認めて小さく「さっき来たばかりなんです」と呟いた。その消沈した様子だけで、彼の容態に良い変化がないのだということがよくわかる。
「……彼の様子は?どうですか?」
それでも尋ねた僕に、朝比奈さんは静かに首を振ってから答えた。
「キョンくんは……昨日と変わらないそうです。やっぱり、目を覚ましてはくれていないみたいで……」
そう言っている間にも、その大きな瞳から涙がこぼれ落ちそうに見える。僕は彼女を慰めながら、二人で彼の眠る病室へ向かった。
一日経ってみて眺めた彼の顔は、本当に昨日とまったく変わらなかった。自発呼吸もしているし、苦しそうな様子はどこにも見受けられない。ただ、その瞼だけは硬く閉ざされたままだ。
ただ意識が回復しないだけで、身体機能に支障が出ていないため、いわゆる植物状態であるとか脳死というものとは状況が異なる。本当に、頭を打ってほんのちょっと気を失っているのと同じ症状なのだと医師は言った。ただ、通常であれば長くても数時間程度で目覚めるであろうはずのそれが、丸一日経過してもなお続いているということなのだ。
「何か、こうしてると……」
僕と同じように彼の枕元にたたずんだ朝比奈さんが、力なくつぶやく。
「ただ、眠っているだけみたいに見えるのに……ね」
「――そうですね……」
それこそ一瞬の後にでも、彼が何気なく目を覚まして「何だ、俺は寝てたのか?」などと言い出しても全く不思議じゃない。でもどれだけ息をつめて待ってみても、そんな瞬間は訪れようとはしなかった。降り積もる沈黙が苦しい。息が出来なくなるほどに。
「……朝比奈さん、これから僕の言うことは、聞き流してくださっても構いません」
僕の言葉に、彼女が伏せていた顔をゆっくりと上げる。
「これは、機関に所属する能力者としてではなく、古泉一樹という一個人が……あなたに聞きたいと思うことです。でも答えられないことなら、無視してくださって結構です」
朝比奈さんの目がこちらをじっと見ている。
僕は自分の中から絞りだすように、その問いを口にした。


「――彼の、存在しない未来と言うものも、……あり得るのでしょうか?」


彼女が驚きに目を見張るのがわかる。
こんなことは、決して聞いてはならないことだった。機関の人間としても、現世の時間軸に生きる人間としても。いたずらに未来を知ろうとすることなど、正しい時間の流れを妨げる要因にしかならないのだから。
でもどうしても止められなかった。今日ここに来て朝比奈さんの姿を目にして、彼女が未来からやって来た存在なのだと言うことが頭を掠めたその時から、もし許されるのならば聞かせて欲しいと言う想いが、僕の胸から消えることはなかった。
咎められてもいい。この不安が打ち消されるものなら、僕は何をすることもためらわなかっただろう。
普段の僕であれば決してしないであろうこの問いに、彼女は僕のほうを見たままで何も答えなかったが、ゆっくりと首を振って、言った。
「……あたしには、わかりません」
「朝比奈さん……」
「禁則事項とかじゃなくて、本当に、わからないんです。少なくともあたしの考える限りでは、キョンくんの存在しない未来なんて、あり得ないって思います。でも……古泉くんは知ってるでしょうけど、未来は、決してひとつに決まっているわけじゃないんです」
「――ええ。わかっています」
未来はひとつではない。そのことは僕も知っていた。何よりも朝比奈さん自身が、その複数用意された未来への道を一つに定めるべく、派遣されてきた存在なのだ。
「あたしも、実は聞いてみたんです。未来でのキョンくんの存在がどうなっているか……について。でも答えは返ってきませんでした。じゃあせめて昨日のあの時に、キョンくんが階段から落ちた時に、戻らせてはくれないかってお願いしたんです。でも、それもやっぱり……許可がおりませんでした」
彼女もきっと僕と同じことを考えたのだろう。彼が失われるのかもしれないという思いは、僕だけではなく、おそらく彼女にとっても強い恐怖であったに違いない。平時ならば決して言ってはならない願いを口にしてしまうくらいには。
「ほんとに、あたし……こういう時、自分がなさけないです」
改めて見た彼女が、紅い唇を噛みしめて、肩を小さく震わせているのがわかった。
「いつも……いつも、本当に、みんなに何もしてあげられてないから……」
声もなく、そのまなじりから涙が一滴滑り落ちていく。それを見てまた胸が痛んだ。
「……いいえ、そんなことはありませんよ。いつもあなたは充分、僕たちに穏やかな時間をくれているじゃないですか」
僕はSOS団の日常風景を思い出す。くたびれたあの旧校舎の一室で、涼宮さんが突拍子もない提案をし、彼がそれをたしなめる。長門さんは定位置で読書を続け、朝比奈さんがお茶を振る舞い、僕はそんな彼らを笑顔で見つめたり、時に解説役を買ってでたりする。そんなごく当たり前の時間が、今はあまりにも愛しく、懐かしいものに思えた。
誰一人としてあの中から欠けることなど、あってはならないのだ。
「むしろ僕のほうこそ、謝らなくてはなりません。聞いてはならないことだと言うのはよくわかっていたんですが……」
「――ううん、いいんです。あたしが古泉くんの立場でもきっと聞きたいって考えるんじゃないかと思うし。答えは、返せないけれど……」
彼女はまた儚げにつぶやいた。
「どうか、それ以上泣かないで下さい。あなたを泣かせたと知られたら、僕はあとで目覚めた彼に殴られかねませんから」
僕が肩をすくめながらそう言うと、ようやく彼女はほんの少しだけ笑ってくれた。この人がそんな風に悲しむことを、彼は全く望みはしないだろう。僕もそれを見ていたくはなかった。でも同時に、彼が今この場で目を覚ましてくれるのならば、僕はどんなに殴られようが罵倒されようが構わないとさえ思う。
彼のあの声が、眼差しが、本当に恋しかった。

今日はこのまま帰るという朝比奈さんを見送り、病室まで戻ってきた時、僕は室内に別の人影があることに気がついた。
その人は、彼の枕辺に立ち、横たわる彼の顔をまっすぐな目で見つめていた。
「……涼宮さん」
つぶやいた僕の声に、彼女が顔を上げてこちらを見る。
その表情にはどこか影があり、いつものような眩しい輝きは見受けられなかった。
「――古泉くん。先に来てたのね」
それでも僕の姿を見て、少しだけ笑ってくれる表情に、僕は彼女の中にある優しさを見たような気がした。
「はい。先程まで朝比奈さんが来ていまして……僕と入れ替わりに帰って行かれましたよ。今、出口まで送ってきたところです」
「そう……」
答える声には、やはり常のような覇気はない。
彼女のこうした姿を見るにつけ、彼が本当に皆の中でどれほど重要な位置を占めているのかということがわかる。もちろん他の誰かがこんな風に倒れたとしても、きっと同じように心配はされるだろう。でも彼が周囲に及ぼす影響というのには、簡単には言い表せないほどのものがあった。
「古泉くん、昨日はありがと。無理言っちゃってごめんね。叔父さんにもお礼を伝えておいてね」
彼女が病院への泊まりこみを強く希望したことについて話しているのだと分かり、僕はそれに答える。
「いいえ、僕にできることでしたらお安いご用ですよ。涼宮さんは……あまり、寝てないんじゃありませんか?」
さっきから思っていたことを口にすると、彼女はその唇だけで小さく笑った。その仕草だけで、僕は自分の考えが誤りではなかったことを確信した。
「朝、有希にも言われたわ。寝てないのかって」
「長門さんにですか?」
「うん、今朝病院に来てくれたの。ずいぶん早い時間だったけど、やっぱり古泉くんの叔父さんが話しておいてくれたからかしら。あんな朝早くからお見舞いに来ても入れてくれるなんてね」
もちろん僕が手を回したわけではなかったが、長門さんならばこの病院に入り込むことなど造作もないだろう。それに、僕も機関もそのことを止める気などない。彼女もまた彼が目を覚ますのを待っているはずなのだ。
「あたしも、寝袋とかちゃんと持ってきてるのよ。すぐそばにいるんだし、何かあったらすぐ飛び起きるつもりで、寝ようとはしてみたんだけどね……ダメだったわ」
彼の顔を見ながら、彼女が言う。
「――本当に、」
わずかに彼女が俯いた拍子に、肩につくあたりで切りそろえられた髪が揺れた。さらりと流れたそれが顔にかかって、いつもは強く輝くあの瞳を、僕からは見ることができない。
「本当に、いつまで、寝ている気なのかしら……」
小さな子供のような、頼りない声がつぶやく。
その奥にある想いの強さがうかがい知れるようで、僕はいつまでも耳から離れないその声が呼ぶ、たった一人の姿をまた見た。
彼の表情は、変わらない。
間違いなくその体はここにあるのに、まるで彼の魂だけがどこかへ行ってしまったかのようで、僕はその開くことのない瞼をただ見つめ続けた。


「――そうだ、古泉くん」
何かを少しでも振り切ろうとするような、つとめて明るい彼女の声が自分を呼ぶ。
「はい、何でしょうか」
「あたし、親に電話してこなくちゃならなくって……まだもう少し、ここにいてくれるかしら?」
「ええ、もちろんです。お待ちしていますよ」
「ありがと。……じゃ、ちょっと行ってくるわね」
そう言って彼女は病室の出口へ足を向けた。ドアの取っ手に指をかけたところで、ふと僕を振り返る。その表情には、見ているこちら側を切なくさせるような悲痛さがあった。
「――古泉くん、もし、キョンが目を覚ましたら……!」
「ご心配には及びません。すぐにお知らせしに行きますよ。だから、安心して行っていらして下さい」
彼女が今何を望むかということなんて、わざわざ考えてみるまでもなく、手に取るように理解できた。何故なら、僕も全く同じことを考えるだろうと思ったからだ。
その考えは間違っていなかったようで、僕の答えを聞いた彼女はわずかに微笑んで、病室を出ていった。
僕の目に、それは、今にも泣きそうな顔であるように見えてならなかった。


彼女がいなくなった病室で、僕はまた彼の顔をただ見つめ続けていた。

――こんな時、普通ならば、人は神に祈るのだろう。
でも僕には祈る神はいなかった。
何故なら僕にとってずっと、神とは彼女のことであり、それは決して自分の願いを叶えてくれるための存在などではなかったからだ。
それは自分からありふれた平和な日常を奪い、知らないところで勝手に定められた役割のもとに生きることを余儀なくさせた。長い間、僕にとっての神とは、搾取と束縛の象徴でしかなかった。 でも直接涼宮さんと接するようになり、彼女の人となりを知って、その内面が決して非道でもなんでもない、ごく普通の少女なのだということを理解した。すぐ側で関わっていく相手を嫌わずにいられたのは良いけれど、近付いてしまったからこそ、逆に僕は自分の感情の持って行き場所を見失ってしまったのかもしれない。 今まで自分が募らせてきた苦痛だったり、やるせない想いだったりするものを、僕はどこへ沈めればよいのだろうか。
そして、どうしても叶えたい願いを強く思う時は、一体誰に祈ればいい?

未だ開くことのない彼の目を見つめる。
どうか、もう一度あの瞳を見せて欲しかった。例えその目が愛しげに眺める、その先にいるのが自分でなくとも、あの光が戻らないことに比べれば、その苦しみなど、一体どれほどのものであるというのだろう?


僕たちは今、決して失ってはならないものを、失おうとしているのかもしれない。
彼がこのまま目を覚まさないなんてことはないのだと、神的存在である涼宮さんが、そんなことを望むはずなどないと自分に言いきかせてみるけれど、この、心臓が引き絞られるような胸の痛みが消えていかない。
普段は、涼宮さんが神的存在であるという解釈については懐疑的であるはずの自分が、こんな時だけはその理屈に縋ろうとしている。
滑稽なことだ。
でも何でもいい。無様だと言われても構わない。
この願いが叶えられるなら。
僕は彼の眠るベッドに手をついた。そのまま、染み一つない真っ白なシーツを強く握りしめる。




――どうか。
どうかもう一度、その目を開けてほしい。
あなたを望んでやまない僕たちのもとへ、帰ってきてください。

僕が願うのはたった一つ、それだけだった。







その後も彼は目を覚ますことなく、僕は昨日と同じように一人で暗い夜道をたどって帰宅した。機関との連絡は義務として行っていたが、その他に何もする気が起きない。せめて体を休めなければとベッドに入ってみても、うまく寝られるはずもなかった。少しだけ眠ることが出来たとしても、悪夢にうなされた後のような疲労感を伴って、強制的に意識が引きずりあげられてしまう。その繰り返しだった。
朝が来て、機関からの進展のない定時報告を受け取り、重い体を叱咤するようにして学校へ向かう。もうすぐ冬休みに入るため、授業がほとんど大きく進むことがないのが若干の救いだと言えた。
彼の容態には全く変化がなかった。病院を見舞う朝比奈さんにも、彼の付き添いを続けている涼宮さんにも疲労の色が見える。特に涼宮さんは気丈に振舞ってはいるものの、普段の彼女を知る僕たちの目から見れば、その憔悴した様子がはっきりとわかった。唯一長門さんだけは、普段と変わらない態度を保っているように僕には思えたが、それでも病院へはちょくちょく訪れているようで、顔をあわせるたびに、彼のことだけではなく僕ら三人を気遣う言葉がその口からよく聞かれた。


彼が階段から落ちたあの日から三日目の夜、僕は昨日と同じように、訪れてはくれない睡眠を少しだけでも引き寄せようとベッドに横たわっていた。既に時刻が午前三時を回った、その頃。

――その感覚が唐突にやってきたのは、まさにその時だった。
僕は一瞬でそれを理解して、ベッドから跳ね起きた。
今まで何度も繰り返し感じてきたその感覚が何であるかなど、今更考えてみるまでもない。これを他の誰かに説明しようとしても、ひどく曖昧な表現にしかならない。ただ、事実としてわかってしまうのだ。そしてそれから目をそらすことは許されてこなかった。それが自分に課せられた使命だったからだ。
久しぶりの感覚だった。だがここ数日の間のことを考えれば、今までそれが起こらなかったことのほうが不思議だと言ってもいいのかもしれない。


僕はその時、閉鎖空間が発生したことを理解していた。







素早く身支度を整え、機関からの連絡を待つ。だがいつもならばとっくに来ているはずの呼び出しは、いつまでたっても来ない。しかしそれも僕には予想していた範囲のことだったので、自分から携帯を手にし、相手を呼び出した。短いコール音の後、その声が答える。
『……はい、森です』
「僕です。早く車を寄越してください」
端的に要点を告げた僕に、電話の向こうの声が静かに答える。
『――古泉、あなたは今日は自宅待機です。先発隊の報告では、今発生している『神人』は一体だけだそうよ。今からあなたまでが向かう必要はないわ』
こう言われるだろうということは何となくわかっていた。だが、今だからこそ、自分はあの空間へ向かわなくてはならないのではないかという気がしていたのだ。
「何を言ってるんですか、森さん。例え一体であっても、そのつど発生する神人の能力差に違いがあることなんて、今更僕が言う必要もないことでしょう。全力を挙げて、一刻も早くその活動を止めるのが僕たちの役目です」
彼女が一瞬沈黙したのがわかる。だがすぐに落ち着いた声音がその先を続けた。
『……あなたの言うことは、とても正しいわ。私も普段であればそのように考えたでしょう。でも古泉、あなたもわかっているはずよ。今のあなたは肉体的にも精神的にも、疲労しすぎている。その状態であの空間に向かうのは危険すぎるわ』
「もちろん自覚はあります。でも、それでもやらなくてはならないでしょう。今までもそうだったはずです」
『それだけじゃないわ。……あなたは今、あの彼を心配するということにおいて、いつも以上に涼宮ハルヒと同じ感情を共有した状態にあるでしょう?そんな状態で神人と戦おうとするのは自殺行為に等しい。――機関は、限られた人数の能力者を簡単に失うわけにはいかないの。それに今の状況で、普段から彼女の近くにいるあなたに何かあってみなさい。どんな事態が発生するか、想像もつかないわ』
森さんが言ったことは、僕にもよく理解できることばかりだった。僕はここ三日の間、目を覚まそうとしない彼を想うということについて、きっと、涼宮さんと同じ苦痛を感じ続けている。彼女の感情と同調しすぎることは、能力者にとってはある意味で危険なことなのだ。
それに、もちろん彼ほどの影響ではないとしても、今こんな時に同じくSOS団の一員である僕の身に何かあれば、更に彼女は動揺を深めてしまうだろう。それがこの世界にとってどのような事象をもたらすのか、誰にも予想することはできない。ただひとつ言えるのは、それが決して良い方向の変化ではないだろうということだけだった。 それらのこと全てを、僕はわかっている。でもそれでもなお、自分はあの空間へ行かなければならない。
「お気遣いには感謝しています。仰っていることも、よくわかります。……でも」
今このときに発生しているという神人は、きっと、普段のそれとは違う。今までよくあったような、日々の退屈やささいな苛立ちを元にしたものじゃない。そんなことは、実際に見てみるまでもなく明らかだ。
彼女は、彼が目を覚まさないことが、苦しいのだ。
――僕と同じように。
それを見過ごしておくことは、僕にはできなかった。
「今だからこそ、僕は行かなければならないと思います。どうか、行かせて下さい。……お願いします」
少しの沈黙があった。僕は息をつめてその回答を待つ。
『――五分で、あなたの家の前まで行かせます』
「……ありがとうございます!」
見えない彼女の姿に向かって、僕は深く頭を下げた。

『くれぐれも気をつけなさい。あの彼だけじゃなく、あなたが失われることも、決して誰も望んではいないのだから』


深夜のことなので、物音を立てないよう周囲に気を配りながら、急いで部屋を出る。マンションの入口にたどりついたとき、宵闇からすべり出るようにして、黒塗りのタクシーが僕の前に止まった。僕はすぐにその後部座席に乗り込む。
「行って下さい。お願いします」
「わかりました」
運転席でハンドルを握る新川さんが、僕の声に答えて車を発進させる。他に通る車もない深夜の道を、タクシーは駆け抜けていった。
その場所には、10分ほど車を走らせたところでたどり着いた。
閉鎖空間が発生した時、その場所に近付けば近付くほど、その感覚は強くなっていく。一言では表現しがたいそれは、能力者だけに備わったセンサーのようなものだった。
近くの歩道に横付けするようにして、車が止まる。
「では、行ってきます」
運転席にそう言って、僕はドアを開けた。
「……どうか、お気をつけて」
かけられた声には、いつも以上にこちらを気遣う様子が感じられた。新川さんには、今までもこうして閉鎖空間が発生するたびに送り迎えをしてもらっている。昼夜を問わず召集されては神人と戦う自分を、まるで自分の子供を見るような温かい目で見てくれていることを、僕はよく知っていた。
僕は振り返り、しっかりとその目を見て頷いた。
大丈夫です。今までもずっとこうしてきた。僕は無事に帰ってきますから。
その思いが伝わっていればいいと思いながら、後ろ手にドアを閉め、僕はその場を離れた。


今回の場所は、自分の家からもそう遠くはなかったのがせめてもの救いだった。商店街のあるところから歩いて十数分くらいの、それほど人通りもない所だ。目の前に踏切がある。普通の人が見ればただの夜の風景にしか思われないだろうが、僕の目は、線路の向こうの空間が不安定に捻じ曲がっていることをはっきりととらえていた。 一度だけ深呼吸をしてから、僕はその空間へ歩を進めた。その瞬間、厚い膜の中を通り抜けるような不思議な感触に襲われる。
踏み込んだその先は、全てが灰色に塗りこめられた世界だった。周囲を彩る色彩がなくなったというだけで、これほど景色が息苦しいものに感じられるのかというこの感覚は、何度体験しても、完全には慣れられるものではない。
あたりを見回しても、神人の姿は見つからなかった。ここからは場所が離れているのかもしれない。閉鎖空間は、状況によっては数十キロメートルに及ぶ範囲で発生することもあるのだ。
僕は目を閉じて、自分を解き放つ。この空間でだけ可能になる、能力者としての力のひとつだ。周囲を赤い光が染めていく。しだいに僕の体は光に飲み込まれ、その光そのものになる。
人の形を離れ、重力から解放された僕は、一瞬で空へと舞い上がった。
自分の中の感覚を研ぎ澄ませ、神人の居場所を探る。……いた。ここからは、もっと東だ。
僕は自分の能力のあたう限りのスピードで、その場所へ向かって空を翔けた。 ほどなくその姿が見えてきた。空に届くかと思われるほどの巨体、長い手足を持ち、顔と思われる部分には目鼻がなく、赤い空洞が二つ三つ見えるだけだ。全身を青い光にぼんやりと光らせ、神人がそこに立っていた。
その周囲には、すでに到着していたらしい仲間達の姿がある。自分と同じように赤い光になった彼らは、その様子をうかがうようにして周りを飛んでいた。
普通であれば早々に神人の動きを止めようと動く彼らが、戸惑ったように手を出せないでいる。僕もその理由をすぐに理解した。
――神人の動きが、いつものそれとは全く異なっているのだ。
通常であれば、発生した神人は周囲の建物などを破壊しながら、閉鎖空間を広げていくようにして外へ外へと進んでいく。それが空間の拡大に繋がっていくわけで、僕たちはその動きを少しでも早く止めるために、力を合わせその体を切り裂き貫いて、神人を倒すのだ。
しかし今僕たちの目の前にいる神人は、明らかにいつものそれとは違っていた。
まず、破壊活動をしようとしない。それどころか、全く動こうという意志を感じさせなかった。 長い腕をだらりと投げ出し、神人はその場所に立ちつくしていた。そして、星ひとつ輝くことのない灰色の空を見上げている。
――まるで、途方にくれた子供のように。
僕はそれを見て、言葉を失った。
神人は、涼宮さんの精神的な鬱屈が限界に達した時に、それを主に閉鎖空間内での破壊によって解消しようとするのがその存在理由だ。彼女はもともと感情を内側に篭らせるタイプの人ではなかったから、往々にして負の衝動は外部への攻撃として発露される。すなわち、苛立ち、怒りといったものだ。神人もそれを反映したように、閉鎖空間においては、周囲の建物などを積極的に破壊してまわるのだ。
限られた箱庭の中でだけそれを行おうとするのが、他でもない涼宮さんの理性の表れなのだろうと思うが、かといってそれを放っておくわけにも行かず、僕たち能力者がそれを鎮めていかなくてはならない。それが今まで何度も繰り返されてきた、僕たちの仕事だった。
……それに慣れているはずの自分たちが、今日はたった一体の神人に手を出せないでいる。
僕だけではない。ここにいる皆全員がよく知っている。今この神人が現れるに至った原因は何なのか。彼女が、自分の心一つに納めきれないほどに強く募らせている感情が何であるかなど、考えるまでもない。
――彼女の胸にあるのは、彼が目を覚まさないことへの、強い悲しみだ。 まるでその重さを体いっぱいに満たしたかのように、神人は動こうとしなかった。 僕もまた、動けなくなる。まるで彼女のそれに感応するように、胸が潰れるような痛みが増していく――。

僕はそこではっとする。いけない。
今のこの状態で、必要以上に彼女に同調してしまうのは命取りだった。この閉鎖空間において、何よりも危険なのは、それなのだ。
神人の存在と僕の能力を実証してみせるため、以前に一度だけ彼をこの空間に招いたことがある。あの時はそのことを説明しなかったが、神人と戦う時、一番に気をつけなくてはならないのは、神人が振るってくる破壊の腕などではない。人間の形を離れている時ならば、物理的な外傷といえるものからは僕たちは自由になるからだ。実体に戻った瞬間に瓦礫の下敷きになったり、強い外圧を加えられたりしたならばもちろんそうは行かないが、具体的な怪我をしてしまうことはそれほど多くない。
最も危惧しなくてはならないのは、精神に影響を与えられてしまうことだった。
神人は、彼女のやり場のない心の叫びが形を取ったものだ。人ひとりの負の感情――満たされない想いや憤怒、疎外感、絶望といったものだ――強いむき出しのそれを叩きつけられるのは、人にはあまりにも重いことだった。それぞれの個体としての形から解き放たれているがゆえに、迂闊に神人に近付くと、その衝撃はダイレクトに自分の精神に伝えられてしまう。
他人の声なき悲鳴をすべて受け入れられるほどには、人の心が持つ容量は大きくないのだ。彼女の感情に支配されてしまえば、その代償で自分が壊れる。
神人との戦いの中で、そうやって精神を病んでしまう仲間を何度も見てきた。それは回復不可能なほどのものではなかったが、自分の中に、抑制がきかない他人の感情を植えつけられてしまうのは、気が狂うような苦痛を伴うことだろう。
僕は幸いにしてそこまでに至ったことはなかったが、今の自分はきっとこの中の誰よりもそうなってしまう危険が高い。それでなくとも、能力者は機関に属する他の誰よりもずっと彼女とのつながりが強いのだ。閉鎖空間の発生を感知するため、それは仕方がないことだと言えるだろうが――だからこそ何よりも、自分をはっきりと保てなければ、飲みこまれ、壊されてしまう。
おそらくこの中で、最も彼女に近付いてしまっているのは自分だ。普段から近くにいるということだけではない。今この神人を発生させるに至った彼女の心と全く同じものを、僕は自分の内側に持ってしまっている。
……彼を、求めてやまない、その心を。
僕は動くことができないでいた。自分の心の中にあるその想いに、彼女の悲しみが重なってくるようで、その降り積もる重さに、動けなかった。
まるでそれを察知したかのように、神人の顔がこちらを見る。果たしてそこに目があるのかはわからない。ただしその顔に空いた赤い空洞は、僕のほうを向いて滲むように光っていた。


輪郭を青い光でかたどらせた腕が、ゆっくりとこちらへ伸びて来る。何かを求めるように力なく開かれた指が僕の視界をさえぎった。

ああ、その手のひらに包まれていくんだな、と感じた。自分を呼ぶ仲間の声が聞こえたような気がした、その時。
僕の意識は、暗闇の中に途切れた。









気がついた僕が見たのは、よく知っている場所だった。すなわち、SOS団のあの部室だ。どうやら時間は夕方らしく、オレンジ色の光が室内を染め上げている。見たところそこには誰もいない。部活の解散後だろうか。
――そう思っていたが、実はそこには一人の人間の姿があった。すぐにそれに気付かなかったのは、その姿が普段知っているものよりもずっと小さかったせいだ。
窓を背にしたいつもの団長席に、涼宮さんが座っていた。
但しそれは高校生の彼女ではない。あれは多分、十歳くらいの時の彼女の姿だ。髪がとても長く、袖のない白いワンピースを着ている。以前資料で見た彼女の子供の頃の姿とそっくり同じものだった。
うつむいた彼女は、団長席に座り、じっとその唇を噛みしめていた。
この頃の彼女は、もっと溌剌とした元気な少女であったはずだ。だから今自分が見ているのが、本当の彼女と同一であるのかどうかはわからない。でも僕はその姿から目を離すことができないでいた。
しばらくすると彼女は席を離れ、ある場所に向かった。団長の席からは向かって左側の奥、それは――いつもの、彼の居場所だ。
小さな指先がその椅子に触れる。ためらうようにして背の銀色のパイプをたどり、ぎゅっと握りしめる。何かをこらえるようなその表情を見ているだけで、僕は胸が苦しくなった。
そのうち彼女は小柄な体を乗り上げるようにして、彼の椅子に座った。そして、膝を抱えてその顔をそこに伏せた。

震える肩を見なくてもわかる。
彼女は、泣いていた。

病院でも、彼女が泣くところは見たことがなかった。僕たちに心配をかけまいとしているのか、彼女の矜持が許さなかったものか、それはわからない。ただ、出来れば僕はそれを見たくはないと思っていた。見てしまえば、かろうじて自分を支えていたものが、それと一緒に崩れ去ってしまう気がしていたからだった。



目覚めない彼を、いつまで待てばいい?
あの人の代わりなんていないのに。
どれだけ願えば、彼は戻ってくるのだろう……。



重なっていく感情に飲みこまれる。彼女の強い想いに引き込まれ、僕はしだいに自分の形を失い、





『――古泉!しっかりしないか!』
急激に意識を引きずりあげられた衝撃に、全身が震えた。同志たちの声が頭に響くのと同時に、自分を覆っていた神人の手のひらが力なく崩れ落ちていくのが見える。仲間が、神人の腕を肩の付け根あたりから切り裂いたのだ。 危なかった。あれ以上ああやって彼女の心に触れていたら、僕は帰って来れなくなったかもしれない。そう考えると、今更ながら恐怖がこみあげてきて、冷や汗が流れる思いだった。
神人は片腕を失ったことでバランスが取れなくなったのか、ふらふらと頼りなくその巨体を揺らめかせている。それさえもが彼女の不安定な心を表現しているようで、僕はまた苦しくなった。
だが、引っ張られてしまうわけにはいかない。僕は彼女の悲しみに同化するためにここに来たのではない。
せめてその苦しみを自分の手で鎮めるために来たのだ。
自分を気遣う仲間たちの声が聞こえる。それに短く答えながら、僕は目の前の神人に向かって飛んだ。
その心をあるべきところへ、涼宮さんの内側へと帰すために。
青い光に彩られたその体を貫く瞬間、神人の顔が少しだけこちらを見たような気がした。


抵抗されることのない神人との戦いはあっという間に収束に向かい、ほどなく倒された神人が消えていくのと共に、閉鎖空間も天頂からひび割れて無くなっていった。
時間はすでに朝に近付いていたのか、戻った現実世界の空は少しずつ白みかけている。戦いが終わると僕は他の能力者たちに血相を変えて心配されたが、彼女の心のすぐ側まで近付いてしまったわりには、精神的におかしくなったり錯乱したりしてしまうこともなかった。思うに、僕の内側に流れ込んできた彼女の感情が、それまで自分の中にあったものと全く同じだったがゆえに、精神を侵されたりせずにすんだのかもしれない。
ひとしきり無事を確かめあってから、僕を含めた能力者たちはそれぞれ自分の住処へと帰っていった。車に戻ると、新川さんは僕に何か特別に聞いてきたりはしなかったが、その目は僕に対しての心配に満ちていたので、僕は一言「大丈夫ですよ」と告げて笑った。
こんな言葉でしか表現できないけれど、自分を気遣ってくれる人が身近にいるというのは、僕の心を温かくしてくれた。


来た道を同じようにたどり、車は僕の家に向かう。僕の体を慮ってなのか、そのスピードは行きのそれよりもずっとゆるやかなものだった。
窓の外に目をやると、遠くの高台から、白く眩しい光が差し込んでくるのが見える。

夜が、明けるのだ。

「――新川さん、すみません」
僕は運転席に小さく声をかけた。
「どうしましたか?」
「今日は、このあたりで降ろして頂いてもいいでしょうか?」
「それは……」
訝る彼を安心させるために、僕は先を続ける。
「ご心配には及びません。もう、家のすぐ近くですから。何となく外を歩いて帰りたい気分なんです」
嘘ではなかった。この世界の、一日の始まりを感じてから、家に帰りたいと思ったのだ。
そんな僕をしばらく見やったあと、「わかりました」と答え、新川さんは車を止めてくれた。降りた僕はそれに礼を言い、彼の運転するタクシーが遠ざかっていくのをずっと見つめていた。

降りたのは、自分の住む部屋があるところから歩いて五分くらいの場所だ。坂の多いこの町の中で、多分にもれずこのあたりも道の起伏は激しい。それでもまだ緩やかなほうに属するだろう、自宅まで続く上り坂を、僕はひとりで歩いた。
さっきよりもずっとはっきりと朝日はその姿を地上に現していて、夜の名残のような薄い青色に満たされていた風景が、しだいにそれぞれの色を取り戻していくのが見えた。冬の研ぎ澄まされた大気が、それを更に際立たせている。昨夜の冷え込みをあらわすかのように、吐く息は白く固まっては周りの空気へと溶けていった。
坂を上っていくと、道がゆるくカーブしている部分に行き当たる。大きく回りこんだ歩道を歩けば、やがて視界が大きく開ける場所にたどり着いた。
そこからは、広がるこの町の姿が一望のもとに見渡せた。決して有名な場所などではなかったけれど、ここは密かに僕のお気に入りの風景だった。


以前にも、思いつくと僕はひとりでこの場所へ来て、こんな風にぼんやりと町並みを見下ろしていた。それは決まって早朝で、たいていは今のように閉鎖空間からの帰り道のことが多かったけれど、眠れない夜が明けるのを待つようにして、ここで一晩を過ごすこともあった。
町明かりが星のようにきらめく夜景も綺麗だとは思うけれど、僕は早朝の風景が一番好きだった。朝日に照らされて、安らかに眠っていた町がまどろみからゆっくりと目を覚ましていく。そんな様子にさえ見えて、何かに迷った時や、背中を押してほしい時には、いつもここに来ていたような気がする。
居並ぶ建物の中の一つ一つには、それぞれにそこに住まう人たちの葛藤だったり、軋轢だったりもあるのだろう。でも今僕が見ることの出来ている光景は穏やかな静けさに満ちていた。
人間同士のつまらない諍いだって、そこに世界と言う基盤がなければ存在することができない。たとえどんなものであっても、理不尽に奪われたり、壊されたりしてはならないだろう。そんなことを思う程度には、僕はこの世界が好きだった。だから守ろうとも思えた。正義漢ぶるつもりは全くないけれど、目の前で世界が崩壊するところなんて、僕は見たくないのだ。ただそれだけだ。
ここに来ると、その思いを確かめられるような気がして、神人と戦うことに苦しさを感じる時には、決まってこの場所へ来るのだ。
そして今僕の見ているこの風景の中には、世界を守ろうと言う思いを更に確かなものにしてくれた四人もまた眠っている。それを思うと、いつも僕の心は温かくなった。
視線を走らせた僕の目は、とある建物の上で止まる。白に近い柔らかなクリーム色に染められたその背の高い建物は、周囲の緑の中でひときわ目立ってそびえ立っていた。

――あれは、彼の眠る病院だ。そこに涼宮さんもいるだろう。
朝の柔らかな光が、建物の壁に反射しているのが見える。僕の目に、それはこの町並みを照らす灯台のようにも見えた。
あの場所に、僕に光をくれる人がいる。



彼がいつ目覚めてくれるのかは、わからない。
一日だって辛いのに、一週間、十日、一ヶ月……どれほど続くのだろう?
それを思うとまた胸が軋むように痛くなる。
でも、僕はきっとそれを待てるだろうと思った。
涼宮さんはまた閉鎖空間を発生させるかもしれない。でもそうなったら僕はまた何度でもあの空間に赴いて、彼女の心と向き合おう。
同じ苦痛を共有している僕にこそ、それは成すべきことなのではないかと思う。


朝比奈さんが泣くのを慰め、長門さんに助けられて、そうやって、彼を待とう。
みんなで、一人も欠けることなく。

かけがえのない彼を、僕たちは待っているのだ。








その日の放課後も、僕は彼の眠る病院へ向かった。やはり目を覚ましてはくれていない彼の姿を見るのはもちろん辛かったけれど、僕にはもう覚悟があった。どんなになっても彼を待てるだろうという気持ちが、自分の心を不思議と穏やかにさせてくれた。ひどい苦しみであっても、僕はその手をとって一緒に歩いていけるだろう。そんな風にさえ思えた。

病室にやって来た僕の姿を見て、涼宮さんは軽く驚いた様子で目を見開いた。
「古泉くん、手に持ってるの、それ何?」
「ああ、これですか。実はさっき、来る途中にあったスーパーで買ってきまして……」
僕が腕に抱えた紙袋の中に入っていたのは、数個の林檎だった。この部屋にやってきた時、何もしないでただ彼の顔を眺めていると、胸の苦しさがいよいよどうしようもなくなっていくのを感じていたので、せめて気を紛らせるものを何か持ってこようと思っていたのだ。
道すがらふと立ち寄ったスーパーで、棚いっぱいに並べられた林檎を見て、何となく手に取ってしまった。小さい頃、病気になった時に母が林檎をすりおろして食べさせてくれたことが印象に残っていたのかもしれない。 今の彼の状態は病気と言うものではないだろうが、お見舞いというと自分はどうもこれを思い浮かべてしまうようだった。
「林檎ねえ。そう言えばあたしも最近食べてなかったかもしれないわ」
僕が取り出した林檎を見て、涼宮さんが呟く。
「召し上がりますか?」
「うーん、後で頂くわ。今はちょっと、……眠くって」
付き添いを続ける彼女の疲労は相当なものだろう。あんな風に閉鎖空間を発生させてしまうのも、無理もないことだと僕は思う。
「もしよろしければ、少しお休みになってはいかがですか?僕はまだ当分ここにいますし、もう少ししたら朝比奈さんもいらっしゃるでしょうから、心配ありませんよ」
僕の言葉を聞いて、涼宮さんは少し考え込むように、僕の顔とベッドに眠る彼の顔を交互に見つめる。それからしばらくして、柔らかい表情がこちらを向いた。
「――そうね。じゃあ、お願いしようかな」
そう言って彼女はたたんでいた寝袋を広げ、彼のベッドの横に身を落ち着けた。眠る時でも彼女はその側を離れない。きっと今まで過ごしてきた夜も、こうやって彼の目覚めを待ち続けていたのだろう。そのいじらしさに、僕は何も言うことができなくなった。
「古泉くん、その、多分言う必要もないと思うんだけど……」
「わかっていますよ。彼が目を覚ますことがあれば、すぐに起こして差し上げます。だから安心して眠ってください」
「うん。……ありがとう」
それだけを答えて、涼宮さんはその体を寝袋の中にしまい込んだ。よほど疲れていたのだろう、ほどなく規則的な寝息が聞こえてくる。僕はそれを確かめてから、彼女を起こさないように紙袋の中の林檎を一つ手に取った。
つやつやと紅く光る林檎に、僕は果物ナイフを滑らせる。あたりに甘くみずみずしい香りが広がった。
料理などはまったくできないが、さすがに林檎の皮むきくらいは僕にもできる。力を入れすぎないように、一定のリズムで手を動かしていくのがコツなのだろうと思った。その甲斐あってか、細長く伸びていく紅い皮をちぎってしまうことなく、むき終えることに成功した。
横にある棚に作り付けの小さなテーブルの上で、ほのかに黄色く染まった林檎の実を四つに切り分け、口に運んだ。爽やかなその味を、素直に美味しいと思えた。
そういえば、まともに食べ物をちゃんと食べようとしたのは久しぶりだったような気がする。もちろん何も口にしていなかったわけではなかったが、動けなくなっては困るからと適当に必要最低限の栄養を摂取していただけだった。
自分で思っていたよりも空腹だったのか、更に二切れほど食べてみる。残りがあと一個になった時、僕はまた紙袋から新しい林檎を手に取った。
昨日までよりは平気になった気がしていたが、やはり、黙ってじっとしていると辛くなってしまう。僕はそんな自分に苦笑した。そんなことでは駄目じゃないか。僕は何があってもずっと、彼を待ち続けると心に決めたんだ――。
その言葉を確かめるように心の中で繰り返して、また僕はさっきと同じように、紅い林檎にナイフの刃を入れた。自分の手元と、眠る彼の顔を交互に眺めながら手を進める。 それを何度か繰り返していた時、ふと僕はある違和感に気付いた。さっきまでとは何かが変わっている。一体何だろう?
その違和感の正体に気がついたとき、僕は思わず息を止めた。

――彼の、瞼が動いているのだ。

視線がそこに釘付けになる。たとえば夢を見ていたりしたら、眠ったままでもその表情に変化があったりすることはよくある。でも今目にしているそれは違うもののような気がする。そう、それはまるで、眠っている人が目を覚ます、その直前の動きであるかのように見えたのだ。
僕はその時、何故だかその光景を直視していることができなかった。後から考えてみてもどうしてそんなことをしたのかわからないが、あれほど強く願っていたことだったから、逆に目の当たりにするのが恐くなってしまったのだろうか。

僕はまた目の前の林檎の皮をむき始めた。実が削れていく、心地よい音が耳に入ってくる。それを感じながらも、僕の神経は目の前の彼へと集中していた。


瞼が開く。
――彼が、目を覚ます。


僕は、自分の中の溢れだしそうな感情を深呼吸一つで内側へおさめ、この奇跡に心からの感謝を捧げながら、こう言った。
「……おや」
手が震え出しそうになるのを、必死にこらえる。



「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りだったようですね」

僕の言葉に彼の顔がこちらを向く、その瞬間を、僕はきっと一生忘れないだろうと思った。








それからは、病室の中は今までの暗い雰囲気を一瞬で払拭する明るさに満たされた。目覚めた彼に起こされた涼宮さんは、口ではどれほど強がっていてもそれを喜んでいるのがよくわかったし、遅れてきた朝比奈さんも彼の姿を見てまた涙を流していた。
ここ数日で朝比奈さんが泣くところを何度も見たが、嬉しさと安堵のあまり涙をこぼす彼女を目にして、やはり悲しみに塞がれたような泣き顔は見たくないものだと強く思った。
長門さんはこの場にいなかったが、涼宮さんがすぐに電話でそのことを報告していた。涼宮さんから聞かされた、遅くなるがあとで必ず来るという長門さんの返事に、彼の目覚めを待っていた皆の思いは変わらないのだろうと感じさせられた。
その後は担当の医師が診察に訪れたり、彼のご両親と妹さんが駆けつけてきたりと病室はちょっとした騒ぎになった。でも彼がここへ収容された時とは違い、それはどこまでも喜びに満ち溢れていて、僕は温かな気持ちで心が満たされるのを感じた。当の本人である彼はどこか困ったような様子でそれらに応じていたが、今くらいはそんな騒ぎも許されるだろう。



僕はその病室をそっと抜け出し、森さんに連絡を取った。
「僕です。彼が目を覚ましました」
伝えたのはそのことだけだった。彼女の返事もまた『そう、わかったわ』と簡単なものだ。きっとそれだけで、彼が退院するに至るまでの、すべての手配を彼女は滞りなく整えてくれるだろう。そのくらいのことは何を言わずともしてくれる人だった。
礼を言って電話を切ろうとする僕を引き止めるように、受話器の向こうから呼ぶ声がする。
『古泉』
「はい」
『お疲れ様。……ゆっくり、休みなさいね』
「はい。――今回は本当に、ありがとうございました」
ねぎらいに満ちたその言葉に応えてから、僕はあらためて受話器をゆっくりと戻した。





今夜一晩は検査入院としてもう一泊することになった彼を残し、僕たちは病院をあとにした。大きな荷物を抱えた涼宮さんは、疲れているだろうにいつも以上に元気で、並んで歩く朝比奈さんを困惑させていた。僕はそれを穏やかな気持ちで眺めながら、三人で一緒に帰り道を歩いていった。
二人と別れて、僕は自宅にたどりついた。玄関の横の棚に、数日前のままに置かれている彼の傘があるのが目に入る。これはいつ返そう。次に会えるのはいつだろうか。終業式のある二十四日までに、彼が学校へ通えるようになったら良いのだけれど。
部屋の電気をつけて、いつもと同じようにソファに身を落ち着ける。カーテンは閉めたままだったから、改めて直す必要もない。
僕は部屋の中を見回した。ここ数日は何もする気が起きなかったから、明日にでも掃除をしたほうがいいだろう。そういえば洗濯物もたまっていたんだった。ああ、それと二学期が終わったら、制服もクリーニングに出さないと……――。



そこまで考えたのが、僕の限界だった。
右手をゆっくりと口元へ持っていく。手のひらで顔を覆うようにして自分の口を塞いだ。そうしないと、嗚咽がもれてしまいそうだったからだ。
部屋の中には自分しかいないというのに、こうして声を殺そうとしてしまうのは、もう僕の性分みたいなものなのだろう。
「――う……」
それでも指の隙間からは、こらえ切れなかった声がにじみ出た。
きつく閉じた瞼から、雫が頬を伝って滑り落ちていく。




――良かった。
彼が目を覚ましてくれて、本当に、良かった……。




彼が倒れてから三日あまり、僕はそうやってようやく、涙を流した。








後で聞いたところによると、何と彼は病院のベッドで眠っていたあの三日間で、こことは別の平行世界に行っていたのだというのだ。僕たちの記憶の中では、彼は確かに階段から落ちて三日のあいだ目を覚まさなかったという事実しか存在しないし、僕以外の他の誰に聞いてもそう答えるだろう。
――もしかすると、長門さんは例外なのかもしれないが。
しかし、彼の中には明らかにこちら側とは違う別の世界を過ごした時の記憶があった。それは僕たちの生きるこの世界とはとてもよく似ていて、そしてまた非常に異なるものだったのだと、彼は言った。
そのことを彼から聞き、僕はその間世界が二種類存在していたという仮説を立て、図などを書きつつ彼にその考えを説明したりした。彼は僕の話をどこか面倒そうなそぶりで、それでも決して完全には拒絶せず聞いてくれていた。

実際に時間移動を体験した彼に、僕は事あるごとに「自分を一緒に連れて行ってくれないか」と言った。彼はそのたびに困ったような、または呆れたような表情を見せていたものだ。でも僕は本当は時間旅行を体験したいと言うことよりも、僕のその言葉に困惑する彼の顔が見たいだけなのかもしれないと思う。まるで、駄々をこねる子供をあやす時のようなその顔が、僕は、とても好きなのだ。


彼が訪れたというその別の世界には、涼宮さんだけでなく朝比奈さん、長門さん、そして僕も存在していたという。ただし僕たちは今のように全員がこの高校に通っているわけではなく、またそれぞれの性格も少しずつ異なるところがあったということだった。
そこでの僕は北高ではなく別の高校に行っていて、同じくそこへ通う涼宮さんに思慕を抱きつつも、今とは違うごく一般的な高校生としての日常を過ごしていたらしいという話だ。
それを僕に話して聞かせた時、少しためらうような表情を見せてから、彼がこう言った。


『……なあ古泉、お前だったら、あっちの世界を選んでたか?あの世界のお前は、ハルヒの変な力に振り回されたり、あのおかしな空間で化け物の相手をしたりしなくてもいい、普通の高校生みたいだったぞ。――お前は、そのほうが良かったか?』


もう四年近く前、この身に超常の力が宿ったときから、僕の人生は変わった。それまでのごく普通の子供として過ごしてきた日々のかわりに、僕は世界の存続のために戦えという使命を手にし、平穏な日常を失った。
そのことを今まで自分がどれほど苦痛だと思ってきたか分からない。
どんな理屈を固めて自分を納得させようとしたところで、それはごまかしようのない真実だった。この力を誰か他人に譲り渡して、ごく普通の日常に戻りたいと考えた事も、数え切れないほどあった。
でもこの頃の僕は、この力を持ったがために存在した出会いの数々を、とても貴重なものだと感じるようになっている。
特別な必然性もなく、偶然に能力者になることを定められた、その出来事があったからこそ、僕は彼女たちと、そして彼と出会うことができたのだ。


だから彼の問いに対しての僕の答えはこうだ。
「いいえ、そうは思いません。僕は今ではそれなりに、この世界が気に入っているのですよ」と。




自分に与えられた境遇だとか、そういうものを、僕は決して全て受け入れることが出来ているわけじゃない。
これからだって迷いもすれば後悔もするだろう。
でも僕はこの場所で生きていく。
心から大事だと思える人たちがいる、この世界で。