乾く間もなし

「もうすっかり、秋なんですねえ」
いつものSOS団の部室で、既に定番となったメイド服を身にまとった朝比奈さんが、窓の外を見ながらつぶやいた。
「あー……そうですね。最近、朝晩は特に冷えますよね」
「ほんとに、この前まで暑かったのに急に寒くなっちゃって。あ、キョンくん、お茶です。どうぞ」
「ありがとうございます」
寒い季節になると、ただでさえありがたい朝比奈さんの淹れるお茶が、さらに身に染みて貴重なものに感じられる。俺が毎日この部室に来る理由のうちで、その大半を占めるのがこのお茶を頂くことだと言っても全く過言ではない。
目の前のそれを一口啜る。実に美味い。別にお茶には詳しいわけでもなかったが、朝比奈さんが手ずから淹れてくださったものが美味しくないわけなどないしな。
朝比奈さんは、いつものように窓際の定位置で本を読んでいる長門にも同じくお茶をふるまい、いそいそと戻っては次に茶菓子の用意に取り掛かろうとしているようだった。そういう動きの一つ一つも実に愛らしいと言わざるをえない。
そんなことをしみじみと考えていても全く邪魔されないくらい、今日の部室は非常に静かで、平和だった。
何よりほぼ百パーセントの確率で騒動の原因となっているハルヒが不在だったし、ついでのように古泉まで今日はいなかった。ハルヒは何の用事があるんだか知らないが、授業が終わったとたん「あたしがいなくてもちゃんと活動してくのよ!」といって教室から飛び出していった。
活動って、このSOS団に具体的な『活動』と呼べるものがあったんなら是非内容を教えて欲しいくらいだ。休日にいつもやってる市内探索とやらだって、正直言ってただ街をうろついているだけに過ぎない。古泉は放課後に少し顔を出したきりで、すぐに機関に呼び出されて出て行った。いつものアレが発生したわけではないようだったが、超能力者は多忙な身分らしい。
そんなわけで、今この部室にいるのは俺と朝比奈さんと長門の三人だけだった。何か事件が起こったりしたときにはこの組み合わせで顔を合わすこともあったが、普段の何気ない時にこの三人になるのは割と珍しいかもしれないな。

俺はそんなことを思いながらまた窓の外を眺めた。まだ紅葉の時期には早いが、中庭に植えられた木々の枝を揺らす風はどことなく冷たそうに見えた。きっとあっという間に冬がやってくるんだろうな、 なんてことを考えていた、その時。
からり、と何か小さなものが床に落ちて、ころころとこちらへ転がってくる音が聞こえた。それは俺の足元まで来て、靴にぶつかったところで動きを止めた。
「あ、ごめんなさい」
自分の鞄を手にした朝比奈さんがこちらを見ている。屈んで足元に手をやると、親指くらいの長さの 小さな円筒形の容器があるのに気がついて、俺はそれを拾い上げた。
これは……リップクリーム、か?
「朝比奈さんのですか?これ」
「はい、鞄に入れてるのを落としちゃって……ありがと、キョンくん」
手にしていたピンク色のそれを渡すと、朝比奈さんはぺこりと頭を下げてそのリップクリームを受け取った。そんなお礼を言って頂くようなことではないですよ。
「だんだん寒くなってきたでしょ?乾燥してくると、あたし、これがないとダメなんです。すぐ唇がカサカサしてきちゃって。ひどいとひび割れみたいになって、すごく痛いんですから」
「ああ、それは俺もわかりますよ。冬になると特にそうですよね」
そう言って朝比奈さんの言葉に同意したものの、俺はふと違和感を覚えて少し考え込んだ。
さっき答えた内容はまったくもって嘘ではなかったが、そういえばまだ今年はそういう感じになったことがない、気がする。
何って、唇が乾く、というやつだ。あれはなかなかに痛い。特に唇の真ん中が切れたりすると、かなり辛いものがある。あれがいつぐらいからよく感じるようになる症状かだなんて、改めて考えみても、正確なところはちょっとわからない。十月だと時期的にはまだ早いのか?
でも朝比奈さんはさっきああ言っていたし、そろそろ空気も乾燥してくる季節なのは間違いないはずだった。でも今年そう思う機会がないのはどうしたことだろう?
俺がそれを疑問に感じたのはほんの一瞬で、その日の帰りにはそんなことを考えていたこと自体さえすっかり忘れてしまっていた。
だが俺は、それを予想もしなかったところで思い出さざるをえないはめに陥ったのだった。


それからまたしばらくしたある日のこと、俺はSOS団での活動が終了した後に、古泉の部屋を訪れていた。「よろしければ寄っていきませんか?」という古泉の言葉を受けてここにやって来たわけだが、正直な話、こいつと人には言えない関係になってから、俺がこの部屋に来る回数はうなぎ上りに増えまくっている。もちろんそれは古泉が熱心に俺を誘うからだが、俺自身もまあ、多少は来たいと思わないわけでもない……ような気もしないでもない。
「何か飲みますか?」
上着を脱いで人心地ついたらしい古泉が尋ねてくる。
「いや、いい」
「そうですか。……しかし、今月末はまた忙しくなりそうですね」
「ハロウィンの話か?今日ハルヒの言ってたやつ」
「ええ、まあいかにも涼宮さんが好みそうな行事ではありますがね。部室でおっしゃっていた通り、鶴屋さんまで巻き込んであちらのお屋敷を借りて開催するんだとしたら、たいそう大掛かりなことになりそうですよ。しかし鶴屋さんご自身もああいったイベント事はきっとお好きでしょうから、おそらくその計画は実行されるでしょうね。おおっぴらに仮装ができる行事でもありますから、各自の衣装を用意するところからきっと、涼宮さんも熱を入れて取り組まれるのではないかと思いますし……」
いつものように立て板に水のごとく語りだす古泉の話を聞くうち、ふと俺の目はその言葉を紡ぎだしていく唇の上で止まった。そういえば、こいつの唇が乾いていたという記憶はあまりないな。乾燥には強い体質とかなんだろうか。唇の感触を知ってるなんて改めて考えると恥ずかしいものがあるが、まあ今更それを言い出しても始まらないか……。
そんなことを考えていた俺は、いつの間にか古泉がこちらを見て、困ったような顔で苦笑しているのに気がついた。
「何だ?」
「何だ、とおっしゃられましても……むしろそれは僕がお聞きしたいところなんですけどね」
意味がわからん。どうかしたのか?
「では率直にうかがいましょうか。何故あなたは先ほどからずっと見つめていらっしゃるのでしょうか?……僕の、唇を」
「──え」
全然気付いていなかった。確かにそりゃそのことを考えてはいたけれど、そんなことを言われるくらい見ていたんだろうか、俺は。
古泉は笑顔のままでこちらに近付いてきて、その左手が俺の肩にかけられる。これはやばい。言い訳のしようがない。次にこいつの口から出てくる台詞なんてあまりにも簡単に予想がつく。
「僕の目にはまるで……あなたが、キスがしたいと思っていらっしゃるように見えてしまいました。それは僕の都合の良い解釈でしょうか?」
自覚してるなら聞くな!それに否定したところでそういう方向に持っていく気満々なくせに、言葉だけは殊勝にしてみせたって意味がないんだよ。いや別に、自分でこの部屋に来ている以上、俺もこういうのを絶対にダメだとは言わないけど……なあ。
古泉は穏やかに微笑む。
「僕は、あなたとキスがしたいです。もちろんそれだけじゃなくて、セックスも。あなたが全部欲しい。……許してくださいますか?」
まっすぐに見つめてくる眼差しに耐えられなくて、俺は、返事のかわりに、──目を閉じた。
右手が腰に回されて、引き寄せられたと思ったそのあとすぐに、唇に温かく柔らかい感触が触れた。ただ軽く表面を触れ合わせただけだというのに、指先から軽く痺れるような感覚が広がっていくのはどうしてなんだろう。何度繰り返しても、不思議だと思う。
すぐに古泉の舌が、そっと唇の合わせ目をなぞってくる。強引に押し入ってくるのではなくて、俺が許すのを待ってる。そういう動きだった。
唇を少しだけ開いてやると、隙間からゆっくりと舌が入り込んでくる。
「ん……」
さらに体を抱き寄せられて、唇同士が深く重なる。舌が口の中の柔らかい粘膜のあちこちをなぞり、歯列をたどるように滑った後で、俺の舌をとらえて絡みつく。角度を変えながら軽く吸い、またなめらかな舌の表面をくすぐっては翻弄していく。
「……ぅん、ん……」
古泉がこうやってしてくるキスは本当に、何度やっても気持ちがよすぎて困ってしまう。体の内側の、粘膜どうしで触れ合うのがこんなに気持ちいいなんて、俺に教え込みやがったのはこいつだ。口の中はきっと心臓を通ってまっすぐに下半身につながっていて、それが古泉の思惑通りになってるんだとわかっていても、すぐに、そこにも触れて欲しくてたまらなくなる。
もっと触って欲しい。深く、内側まで。
俺は知らず自分から手をのばして、古泉のシャツの背をきつく握り締めていた。
「──っ、は……」
貪るように重ねられていた唇が離れていく。名残りのように細く唾液が糸を引いたのを見て、その卑猥さに顔が赤くなってしまうのを止められない。
心なしか上気した顔の古泉が、熱のこもった眼差しで俺を見つめてくる。その唇はさっき交わしたキスのあとを色濃く残したように、柔らかく潤って、濡れて……。


「──ああっ!」
突然声を上げて固まった俺を、古泉が驚いた目で見てくる。
「どうか、したんですか?」
古泉の疑問はもっともだが、俺のほうはもう、それどころじゃなかった。
だってそうだろう?これが理由だなんて、そんなことがあっていいのか?
去年の俺はもちろん古泉とも出会っていなかったし、だからもちろんこんなことだって、したことがなかった。一年前と明確に違うのはこの点だ。
それは分かるけれど、だからって、この答えは恥ずかしすぎるだろう。
……こいつとこんなキスを何度もしてるから、
だから唇が乾かないんだ、なんて。
俺はまさに顔から火が出そうな気持ちになって、うなだれてしまった。
「本当にどうしたんですか?具合でも悪くなりました?」
頼むから古泉、今だけは黙っててくれ。後生だから。



俺はその後も朝比奈さんやハルヒが唇にリップクリームを塗るのを目にするたび、顔が赤くなりそうになるのを必死に堪えなければならなくなったのだった。
相変わらず乾こうとしない自分の唇を噛みしめつつ、な。