戻れない道、その手前で

その日、帰りのホームルームの後に運悪く担任に捕まった俺は、特別教室の掃除を数人とともに手伝わされるはめになり、それがようやく終わってSOS団の部室にたどり着いた頃には、もうかなり遅い時間になってしまっていた。十中八九ドアを開けたとたんにハルヒの罵声が飛んでくるんだろうな……などと思いつつドアをノックしたのだが、その向こうから帰ってきた声は、意外な相手のものだった。
「どうぞ」
──古泉?あいつが返事をするってことは……。
半ばそう予想しながら開けたドアの向こうには、思ったとおり、古泉ひとりの姿しかなかった。
朝比奈さんがいれば必ず率先して返事をして下さるだろうし、そうでなければハルヒが何らか反応をするだろう。その二人でなく古泉が返事をしてきたと言うことは、中を見るまでもなく、朝比奈さんとハルヒの両方ともが部室にいないということが推測できる。古泉の他に長門がいる可能性ももちろんあったが、あの二人が一緒にいる図っていうのは、なかなか想像しにくいものがあるんだよな。
入口のところでそんな推理に思いをめぐらせていた俺に、古泉はやわらかく笑いかけた。
「遅かったですね。もう今日はいらっしゃらないのかと思いましたよ」
「ああ、ちょっと帰りがけに担任につかまっちまってな……お前こそ、一人でここにいたのか?」
ドアを閉めて室内に入った俺は、自分のいつもの定位置である、古泉の向かいの席に腰を降ろした。
「30分くらい前までは、涼宮さんたちもいらっしゃいましたよ。ですが朝比奈さんとお二人で話をなさっているうちに、何やら会話が盛り上がったようでして、皆さんを引き連れて勢い良く出て行かれてしまいました。確か、駅前にケーキの美味しいカフェが出来たらしい……と言ったお話をされていましたから、きっとそちらへいらしたんでしょうね」
意気揚々と朝比奈さんを連れ出していくハルヒと、それに引っ張られていく長門の姿がありありと想像できる。まあその行動に至ったらしい動機は、あいつにしてはかなり一般女子高生らしいと言える内容だったので、そんな風に『普通』に近付きつつあるのかもしれないハルヒの振舞いは、歓迎されるべきことなんだろう。
「お前は一緒に行かなかったのかよ」
「いやあ、さすがに女性達の輪の中に一人だけで入るのは遠慮させて頂きましたよ。同性同士、つもる話もきっとあるでしょうから」
俺ならともかく、お前が混じっていたところで、見た目としてはそれほど違和感のある光景にはならないと思うがな。まったくもって忌々しい話だが、それが容姿レベルの高さの成せるわざだろう。まあ、周囲からはあらゆる意味で羨望や嫉妬の眼差しを向けられるだろうことは想像に難くないが……。
「それに僕は、部室に鍵をかけて帰る任務を仰せつかっていましたから。あなたが来るまではお待ちしていようと思っていましたので」
「……別に、待ってなくても、来てみて鍵がかかっていたら俺も帰るぞ?」
「まあそこは、やはり一度引き受けたことでもありますからね」
「だいたい俺が来なかったら、どうするつもりだったんだよ」
俺がそう言うと、古泉はひょいと肩をすくめてみせる。
「その時は仕方ありませんね。……でも僕は、多分あなたなら遅くなっても一度はこちらにいらっしゃるだろうと思ったもので、お待ちしてみたまでですよ。その間久々にラジオなんかを聴いてみたりして、少し新鮮な気持ちにもなりましたしね」
「ふーん……?」
確かに、窓際に置いてあるラジオからは小さめの音量で音楽が流れてきている。どうやらクラシックらしいが、聞きおぼえはあっても曲のタイトルなんて俺には全くわかりはしない。
俺はラジオに向けていた目線を、そのまま窓の外へと移動させた。
まだ太陽は完全に沈みきってはいないが、空は少しずつ暗くなってきている。夜が近付いてくる前触れのように青みががっていく空の色は、夏のそれとは違って、見ていると何だか寒々しい感じがする。10月に入ってからというもの、朝晩は特に冷え込むようになってきた。
日が暮れるのもずいぶん早くなったように思う。もう秋分は過ぎたから、これからは昼より夜のほうが長くなるんだよな。子供の頃は、冬になると外で遊べる時間が短くなるのを残念に思っていたもんだったが、SOS団で活動する今となっては、猪突猛進の団長様が昼と夜とを問わず召集を掛けて下さるので、あまりそんなことも関係なくなっているかもしれない。
「どうします?お茶でもお入れしましょうか。朝比奈さんのおもてなしには遠く及びませんが」
「いや、別にいい。待たせといて悪いが、暗くなってきてるし、たまに早く帰るのもいいんじゃないか」
「そうですね。では、そろそろ帰りましょうか」
古泉は立ち上がり、ラジオのスイッチを切るためにだろう、窓際へと歩いていった。
窓ガラス越しに、古泉の背後には少しずつ宵闇に近付いていく空が広がっているのが見える。抑えられた光がその姿の上にかすかな陰翳を作り出すのを見て、俺は無意識のうちに、その光景を綺麗だと思ってしまっていた。
「……どうかしましたか?」
視線に気付いたらしい古泉が振り返る。
「──いや、別に」
俺はふいと横を向いた。何でよりによって古泉に見惚れなくてはならないのだ。確かにこいつの容姿が整っていることは、非常に遺憾ながら認めざるをえない。それでなくてもSOS団は外見のレベルについてははやたら高い奴ばかりが揃っていて、その範疇に入らない自分としては、時々複雑な思いを禁じえないのだ。もちろん目の保養という部分では、大変恵まれた環境だと言って差し支えないんだが。
その古泉は今しもスイッチを切ろうとラジオに手をかけていたはずだったが、気付くといつの間にか指がその手前で止まったままになっていた。
「どうした?」
「……ああ、すみません。もしよろしければ、帰るのはこの曲が終わってからにして頂いても構いませんか?」
「ああ、別に構わんぞ。一曲くらい」
ラジオでは、ついさっき曲が切り替わり、それまでとは別の曲が新しく奏でられ始めたところだった。やっぱり俺にはタイトルはわからなかったが、どこかで耳にしたことくらいはあるような気がする。それはピアノだけで演奏された曲で、明るいけれども穏やかなメロディが印象的だと思った。
「これ、お前の好きな曲なのか?」
俺が尋ねると、古泉は静かに微笑みながら答えた。
「──ええ、とても」
やわらかい音が室内を満たしていく。俺は目を閉じてラジオから流れる旋律に耳を傾けていた。たまにはこういうのもいいかもな。うっかり途中で眠ってしまいそうだが……。
「そういやこれ、何ていう曲なんだ?」
言いながら俺は窓際の古泉のほうを振り返った。
「──……あ、タイトルは……実は、僕も知らないんです」
「……そう、か」
ほんのわずかに目を見開いてから、それを拭い去るように曖昧に笑った古泉の表情を見て、俺は視線をそらした。

──ああ、まただ。
もう、これで何回目になるかわからない。
いい加減これが、偶然かもしれないだとか言えるレベルじゃなくなってるんだろうってことは、いくら俺でもわかる。
最初は気付かなかった。気付いても、気のせいだとか偶然タイミングが重なっただけだろう、とか 思っていたけど、これだけ回数を重ねると、さすがにそんな理由で片付けることはできない。

一体、いつからなのだろう。
俺がふと古泉を見たその時に、必ずと言っていいほど、こいつと目があってしまうのは。
それはつまり、俺が視線を向けるよりも先に……古泉が、俺を、見ているということなんだ。


お前は、いつからそうやって俺のことを見ていた?
どうしてそんなことをする?
……答えは、聞かなくてもわかってしまうような気がした。
あの目の色を見れば。
俺と目が合う瞬間に、お前が打ち消そうとして、そうしきれずにその目の奥に残った強い感情の揺らぎを、俺は何度も見てしまっているんだ。
それはついさっきも同じようにあの瞳の内側にくすぶっていて、それで俺は自分の考えに間違いがなかったことを確信させられた。
「──古泉」
俺の口は自然にその名前を呼んでいた。
これはきっと、聞いてはいけないことなのだ。頭のどこかがそう訴える。でもどうしてだろう、自分の唇がその疑問を紡ぐのを止められない。
「……お前、やっぱり俺のことが──」


「駄目です」
──それは、強い意志を感じさせる、拒絶の言葉だった。
「……駄目ですよ、それ以上を口にしては」
その顔から笑顔を消した古泉が、こちらを見ていた。笑わないこいつの表情なんて、滅多に見られるもんじゃない。ああ珍しいな、と俺はまるで他人事のようにその顔を眺めていた。
「僕がこの場所にいるのは、世界の安定を図るためです。それはすなわち、涼宮さんの精神の安定を保つということとイコールでもある。僕は……機関に属する僕たちは、そのために日夜奔走しています。そしてあなたは、涼宮さんとこの世界の、鍵だ」
古泉が、今まで何度も聞かされたような台詞を繰り返す。お前のそれは何か、防御のための呪文か何かだとでも言うのか。それさえ唱えていれば安全だとでも思ってるのか。そうやって、お前が必死に守って取り繕おうとしてるものは何だよ?
「あなたと涼宮さんが円満に心を通わせ合うことで、世界はより安定に近付くだろう、というのが現在の機関の大勢を占める意見です。僕もまたそれに同意しています。あなた方二人を守るために、ひいてはこの世界を守るために、そのためにこそ僕はここにいるのです。もちろんその本来の目的を取り除いたとしても、僕にとって今やSOS団の活動は、心から楽しいと思えるものになっています。多少は一般的という言葉から逸脱している部分もありますが、本来であれば経験し得なかったであろう高校生活を過ごせていることに関しては、僕はこの境遇に感謝すらしているのです。そんな楽しい日々を送るうち、その中で一番頻繁に会話を交わしているあなたに親しみを覚えてしまうのも、無理からぬことだと言えるでしょう」
さっきまで言葉少なだったのがまるで嘘のように、古泉はべらべらと喋りつづける。そういうポジションは確かにこいつの専売特許だろう。だが、多くの言葉を費やしさえすれば、その奥にある真実さえ隠せるなんて思ってるなら、とんだ大間違いだ。俺はそんなに甘くなんかない。
「そう、僕にとってあなたは、大事な……」
古泉が言葉を切り、わずかに沈黙が流れる。
「大事な、得がたい……仲間です」

ああ、仲間だっていうのは俺も否定しない。否定しないがな。
なあ古泉、じゃあお前は何か、大事な仲間であるという前提があるなら、他の奴のこともそんな、手に入れたくて苦しくて仕方がないって訴えるような、そういう目で見るとでもいうのかよ?
違うだろう。お前のそれはもう、そう言う種類の目じゃない。
その感情は、名前をつけるなら……。
「──仲間だから、慕わしく思ってしまう。大事で、近くにいたくて、自分で意識していないうちに目で追ってしまって、触れてみたくなって……」

わかってるんだろう?お前も。その胸にある感情が何なのか。
俺が気付いてしまうくらいに、あからさまに、止められないほどのそれが何なのかを。
「でもそれは、決して、許されることではないんです。僕の望みのために、世界の鍵に手を触れることなど、してはならない。そんなことをしたら、何が起こるかわからない。──いえ、予想はつくことですよね」
自嘲するように呟くその言葉は多分、俺じゃなくて、こいつ自身に向けられたものだ。伏せた目がそれを表しているように思える。
「たとえ、あなたがどう思っていて下さったとしても。……そう、」
古泉がゆっくりと顔を上げて俺を見る。
その目線が、正面から合った。


「僕たちが抱き合ってしまえば、確実に世界は崩壊するのです」


「……困ったものです」
いつかどこかで聞いた台詞と似たような言葉を口にして、古泉はただ曖昧に微笑んだ。

俺は黙って、古泉の顔を見返した。
それが今の、お前の、答えなんだな。
「……さあ、もう暗くなってきました。帰りましょうか」
今度こそラジオのスイッチを切った古泉が、いつもと同じような笑顔で言う。
「──ああ、そうだな」
俺はその言葉に促されるままに鞄を手に取り、廊下に出た。


戸締りをする古泉の背中を見ながら、俺は、さっきのことを思い返していた。
言わないっていうのが……お前がそうしたいんなら、俺はそれに付き合ってやるさ。
──少なくとも、今は。
だが古泉、俺はもう知ってしまった。
そしてお前ももう、俺がそれを知っていると言うことに気付いてしまったんだ。
きっといつか、それをごまかせなくなる時がくるだろう。
たとえそれが、お前の言うような、世界の崩壊とやらに繋がるようなことであったとしても。
その日は必ずやってきてしまうだろう。
なあ古泉、お前も、それを、わかってるんじゃないのか……?



校舎を出て坂道を下るその途中で、横に並んで歩く古泉がふと口を開いた。
「──実はさっき、ひとつ、あなたに嘘をつきました」
「ん?」
「部室で、ラジオから流れていた曲のタイトルです。知らないと言ったのは嘘ですよ。
あの曲は……『Je te veux』といいます」
「ジュ、……なんだって?」
「フランス語です」
「──へえ」
フランス語、ね。


古泉とフランス語、という組み合わせが妙に似つかわしいような気がして、長く続く坂道を下りながら、俺は古泉の声でつぶやかれたその音を心の中でひとり、繰り返していた。