鼓膜にやさしく触れていくような、不規則に響くその音で目が覚めた。一瞬あとに、ああ雨の音だ、と気がつく。少しずつはっきりしていく意識の中で見たのは、焦茶色のフローリングの床、部屋の壁一面を全てぬって作られている大きな窓、体にかけられた柔らかいタオルケット、そして静かに俺のほうを見ている長門の顔だった。
「……俺、寝てたのか?」
「1時間47分前からあなたは眠っていた」
少し離れた場所に座っていた長門は、読んでいたらしい本を膝の上でぱたりと閉じながらそう答えた。ゆっくり体を起こすと、さすがに床の上で寝ていたせいで腕やら腰やらが少々痛い。それをほぐすように左肩を大きく回しながらあたりを見ると、室内には自分と長門以外の人間がいないことに気がついた。
「あいつらはどこ行ったんだ?」
「涼宮ハルヒは朝比奈みくるを連れて買い物に出かけている。恐らくあと30分もしたら戻ってくるだろう。古泉一樹は台所」
「台所?」
「食器を片付けに行った。……別に、構わないと言ったのだけれど」
あいつも大概マメなやつだな。
テーブルの上は綺麗に片付けられている。ついさっきまで……と言っても俺がいつの間にか寝ていたからしばらく前になるんだろうが、そこには朝比奈さんが作ってきたケーキが乗った皿と紅茶を淹れたカップが並んでいたはずだ。いつものようにSOS団の5人で過ごす休日、今日は不思議探索と言う名の市内徘徊ではなく、揃って俺たちは長門の家にやって来ていた。
ことの発端は先週の水曜日あたりだったか、部室でハルヒが朝比奈さんから『最近はお菓子づくりに凝っているんです』という話を聞きだしたのがきっかけだったはずだ。興味深そうに話を聞くハルヒに、今挑戦しているというケーキ作りについて楽しげに答える朝比奈さん。そこから「あたしもそれ食べてみたいわ!みんなもそう思うわよね?」と話に弾みがつくまでそう時間はかからなかった。かくして、本日の土曜日は予定を変更し『朝比奈さん作のケーキをご馳走になろうの会』の開催とあいなったわけだ。ハルヒもたまにはいいことをする。もちろん俺に否やがあるはずもなく、古泉は微笑みながら「素晴らしいですね」と同意し、長門もこくりと頷いていた。
そして、例の喫茶店と同じくらいに何かというと俺たちが集まっている長門の部屋が、その会場になっていた。こういう時に毎回場所を提供してもらうのは少々悪いような気がしないでもないが、家主である本人が問題ないというのだから問題ないのだろう。
ちなみに朝比奈さん作のケーキは作り手であるご本人の愛らしさをそのまま表現したような可愛らしい出来栄えで、その味も大変に美味だった。これは俺以外の連中についても無論同じ意見での一致を見ており、口々に褒められた朝比奈さんが照れたように笑う姿など、まさに目の保養としか言いようがない麗しさだったものだ。加えて、「このケーキにはこれが合うと思いますから……」と言ってわざわざ持参してきてくれた紅茶も、期待に違わず非常に美味しかった。
ありがたくそれらのご相伴に預かったあと、俺は料理の話でまた盛り上がるハルヒと朝比奈さんの話を聞くともなしに聞いているうちに……いつのまにか、眠ってしまったらしい。
腹が満たされたら眠くなるとか、それは確かに動物の自然な反応ではあるけれども、ちょっとうかつすぎやしないかね俺は。ハルヒは不機嫌になったりしなかったんだろうか。
「そのことなら心配ない。むしろ『そのままにしといてあげたらいいわ』と言っていた。そのタオルケットをあなたに着せ掛けたのも彼女」
そりゃまた……珍しいこともあるもんだ。
言われて、あらためて手に取ってみた上掛けは柔らかく清潔で、とても触り心地がよかった。
俺はすぐそばの壁にもたれて座り、そこから窓の外を眺めた。細かく降る雨粒の向こうに、遠くで明滅する高層ビルの赤いライトが見える。時々窓ガラスに当たった雫がパラパラと音をたてるが、それほど雨は激しくないようで、窓をたたくその雨音もどこか優しい感じだ。
音のないこの部屋の中で静かに響くそれに、また眠気を誘われそうになる。
ひとつあくびをしてから、俺はあることに気付き、なにげなく呟いた。
「そういや、ハルヒたちは大丈夫なのか……?この雨」
「心配ない。傘を持たせてあるから。それに彼女たちが向かったのはこの近所にあるスーパー。それほど濡れることもない」
さすがに長門にぬかりはないな。
ふと見ると、長門はさっき閉じていた手元の本をまた読み始めているようだった。床に正座して、膝の上に分厚いハードカバーの本を乗せている。
「窮屈じゃないか?」
何となく口から出たセリフだったが、それに反応した長門が本から目を離してこちらを見てくる。透明な水みたいに見えるその目の中には、わずかに疑問の色が浮かんでいるように見えた。
「その姿勢。こっちに来て、壁にもたれて読めばいいだろ。そのほうが楽なんじゃないか」
……とは言え長門は背筋を伸ばして姿勢よく座っていたし、仮にその体勢を続けたところでこいつが疲れたりするのか?という気にもなるが、何もそんな首が痛くなりそうなポジションを続けなくてもいいんじゃないかと思ったのだ。
案の定、長門は俺の言葉に少し驚いたように軽く瞬きをした。そのままこちらを見てじっとしているので、俺は自分の座っているすぐ横の床をぽんぽんとたたいてやる。
長門は少しの間俺とその床とをかわるがわる眺めていたが、そのうち本を腕にかかえてゆっくりと立ち上がり、俺の隣に来てすとんと座った。見上げてくる目が「これでいいのか」と問うているような気がして、俺が少し笑うと、長門は膝の上に置いた本をまた開き、ページをめくり始める。
規則的に繰られる紙の音が、雨音と混じって静かな室内に響いた。
しばらくして、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
「よう、ご苦労さん」
「──ああ、起きてたんですか。……と、これはまた……」
俺が声をかけると、気付いたらしい古泉はこちらを見て口を開いたが、その途中でひどく驚いたように珍しく口ごもった。
「何だよ」
「いえ、その……何と言うべきかわかりませんが」
何だそれは。
まあ、いいさ。お前の言いたいことぐらいわかってる。癪な話だが。
「何か問題でもあるか?」
「問題……は、別にまあ無いですよ。今は涼宮さんもいませんしね」
そう言って古泉は微妙な表情で俺と長門から目をそらした。意外とわかりやすい奴だな。ハルヒがいないからなのかどうだか知らないが、いつもの微笑みポーカーフェイスはどこへ置いてきたんだ?
どことなく所在無さげな古泉を見て、俺は仕方なく長門が座っているのと逆側の床を指し示してやった。
「ほら」
「……え?」
「え、じゃない。お前もここに来て座ればいいだろう」
今度こそ古泉はあからさまに驚いた様子で大きく目を見開いた。
それ、なかなか珍しい表情だな。
「──あの、一体どうしたんですか?実は熱でもあるんじゃないでしょうね」
「俺はまったくの平熱だ。お前こそ普段はあれだけ自分から人にひっついてくるくせに、何だその態度は」
こっちが嫌だという時には離そうとしないのに、こちらから来いというと躊躇するとかって、お前は猫か何かか?いや、シャミセンだってもうちょっと義理とか分別とか言うものを持ち合わせているだろう。だいたい俺が寝不足なのは誰のせいだと思って……。
──いや、この話はやめにしよう。はっきり言って墓穴にしかならない。
俺はあらためて古泉のほうを向いて言った。
「で、どうするんだ?座らないのか?」
「……座ります」
何か決意を固めたような表情で(何でそんな大げさなんだ)古泉は俺の隣に来て、その場に腰を降ろした。座りながら何か小声でブツブツと呟いていたが、あえてそれを聞いてやろうと言う気はさらさらない。
俺をはさんで反対側に座っている長門のほうを見ると、さっきと全く変わらない様子でページをめくる姿が目に入った。こういう時のこいつのスタイルは見ていてむしろ安心する。
そんなことをつらつらと考えていたら、床に置いている右手がふいに温かくなって……古泉お前何をしてるんだ。
「いいじゃないですか、このくらい」
俺は隣に座ってもいいとは言ったが、手を繋げなどと言った覚えはない。
「言い出したのはあなたのほうなんですから、少しぐらいこちらに譲歩して下さってもいいでしょう。そうは思いませんか?」
全く思わん。
さっきあれだけ逡巡してたくせに、回復したらあっさり自分の都合のよい考え方にシフトしようとするとは、どういう了見だ。
わずかに苦笑した古泉の視線が、俺の横を通り越して、その先に動くのが目に入る。振り向くと、さっきは全く動こうとしていなかった長門がこちらを見ていた。その目線が古泉の手が重ねられた自分の右手の上にあるのに気付いた俺は、何と説明したらよいものかと思考をめぐらせていたが、あろうことか古泉は柔和に微笑みながら、
「長門さんもいかがですか?」
などと言い放ちやがった。もしや熱があるのはお前のほうだったのか?
だが長門はわずかに首をかしげながらゆっくり目を瞬かせたのち、そっとその右手を俺の左手の上に……乗せた。
──俺は、こんな時何と言えばいいんだろうね?
「良いんじゃないですか?たまにはこんな機会があっても」
たまにじゃなかったら俺の心臓がいくつあっても足りないと思うがね。
ところで古泉、どさくさにまぎれていやらしく指を絡めるのはやめろ。殴るぞ。
いつのまにか、長門は俺の手の上に右手を重ねたままで、また同じように膝の上の本を読み始めている。さっきと違うのはページをめくる手が右手から左手に変わったということだけだ。俺もそんな様子を見ていると、古泉のセリフじゃないが、まあこんなのもたまには悪くないか、という気がしてきていた。
「……ハルヒたちが帰ってくるまでな」
少しずつぬくもりを増していく両手の温度と、変わらずに降り続いている雨音を感じながら、俺はまた心地よいまどろみに身を任せた。