次の日の朝、目が覚めて最初に気がついたのは、台所のほうから漂ってくるコーヒーの香りと、ベッドに寝ているのがいつの間にか自分一人だけになっているということだった。
古泉はたぶんもう起きているんだろう。この部屋に泊まった時は、だいたいあいつのほうが先に目を覚ましているような気がする。
まだ完全には覚醒してくれない頭をもてあましながら、とりあえず起き上がってベッドに腰掛けると、それに気付いたらしい古泉が向こうの部屋から顔を見せてきた。穏やかな微笑みを浮かべながら、俺のそばにやってくる。
「おはようございます。目が覚めましたか?」
「……はよ。まだ眠いけど、起きるわ」
「でしたら、リビングまで来てください。簡単にですけど、朝食は用意してありますから」
「あー、わかった……」
ここまで話したところで、俺はあることに気がついた。
「お前、どっか出かけてきたのか?」
古泉の着ているのは部屋着じゃなくて、こいつにしては充分ラフな恰好ではあったけれども、外に出る時の服装だった。
「ええ、さっきちょっと近くのコンビニまで行ってきたんです。ちょうどパンを切らしていましたから。これから焼きますので、適当なところでいらしてくださいね」
「ん、そうする」
そう答えると、古泉は目を細めて俺の顔を眺めていた。何かおかしいか?
「いいえ、何でもありませんよ。ただ……いつもながら寝起きのあなたはどこかこう、無防備な感じがして、ますます愛しいなあなんて思ってしまっただけです」
言われたほうの俺はどう反応するのが正解だというのか、誰か教えてはくれないだろうか。目の前の男は朝っぱらから脳が砂糖漬けにでもなっているとしか思えない。
「今の僕は常に眩暈がするくらい幸せですからね、このくらいは特別休暇に免じて、許してやってください」
苦笑しながらそんな殊勝そうなセリフを言ってはいるが、結局改めようという意志が感じられないのは確かだ。だいたいこいつの「このくらい」がどの程度のものなのか、きっとそれは俺の基準とは大きくかけ離れた範囲を指しているに違いない。
何とも返す言葉がなくなった俺を見た古泉は苦笑して、
「では、お待ちしていますから、用意が出来たらどうぞ」
と言って部屋を出て行った。
──去り際に、唇で軽く俺の頬に触れてから。

とっさのことに反応できなかった自分には脱力するしかない。
多分あれは「おはようの何とか」のつもりなんだ。間違いなくそうだ。
あいつはああいう恥ずかしい行為が大好きな男だというのはよく知っているが、やられるほうの身にもなってみろ。いや、もし万が一俺が同じことをしようものなら、下手したら嬉し泣きの一つや二つするかもしれないな。それはあまりに容易に想像がつく。もちろんそんな墓穴を掘る気は俺には一ミリたりともないわけだが。
別にキスの一つや二つくらい今更なんだ、という考え方もなくはないんだが……ゆうべだって何回したかしれないし、唇どころかもっと色んなところで繋がっちまってるのを否定は、しない。が、さっきのあれはもう、なんだ。恥ずかしいとしか言いようがない。
あいつの近くにいる以上、さっさと慣れてしまったほうが楽なんだろうと思う反面、そうなってしまったら人としておしまいだと言う声も、自分の中からは根強く聞こえてくる。
とりあえず、今顔が赤いのをなんとかしてから朝メシを食いに行こう。話はそれからだ。


「──で?今日はどうするつもりなんだ?」
朝食として古泉が用意した食卓に並んでいたのは、ほど良く焼かれたパンとコーヒー、昨日作ったサラダの残りと、目玉焼きにハムを添えたものとか、そんな感じだ。こいつにしては充分上出来なメニューだろう。
表面がかりっと香ばしく焼かれたパンをほおばりつつ、俺は古泉に今日の予定を尋ねた。
「そうですね、昨日とあまり変わりばえはしないんですが、これと言って決めてはいませんので……」
そう言いながら、古泉はコーヒーを口に運んだ。そんなありふれた仕草もどこか様になっているように見えてしまうのは、俺の気のせいなのか。
「もう一日遅ければ、夏祭りも始まったんですけどね。ちょっとタイミングが悪かったでしょうか」
妹が連れて行けとねだっていた夏祭りは、明日の夜からだ。それが前夜祭で、確か祭りはそこから三日間続いて行われるはずだった。祭りのメインは明後日で、盆踊り大会か何かが開催されるのだ、と聞いたような気がする。
「そういや、去年はSOS団で行ったんだったか。盆踊り」
「ええ、確かにそうですが……正直なところ去年の夏に関しては、はっきりと記憶がないとは言っても、自分が何をして、逆に何をしなかったのかと聞かれると、ちょっと曖昧な感じがしてしまいますね」
古泉が肩をすくめるのを見て思い出す。そうだ。去年の夏はハルヒの奴が例の力を暴走させたおかげで、俺達は八月下旬の二週間を15000……正確には 15498回だったか?ループさせられるはめになったわけだ。無事にそこから抜け出せたからこそ、今こうして話の種のひとつにもできるが、改めて考えてみても、ちょっとぞっとしない話だ。終わりのない夏、か。
「でも僕は、今ならちょっと涼宮さんの気持ちがわかるかもしれませんね」
「うん?」
「今のこの時を終わらせたくない、という気持ちについてですよ。僕は昨日からずっと、あまりにも幸せなので、そういう想いについては同意せざるを得ないところです」
えらく大げさな話になったもんだが、昨日俺たちがやったことと言えば、古泉の部屋でゲームをして、買い物に行って晩メシを作って食って、寝ただけだ。何ひとつ特別なことはやってないような気がするんだけどな。
でも古泉はそんな過ごし方に満足しているらしかったので、俺は別にそれで構わないか、と思ってもいる。
「今日のことですが、あなたはどうですか?」
「俺?」
逆に問いかけられて、サラダをつついていた手が止まる。
「はい、せっかく来ていただいているんですから。行きたいところとか、やりたいこととかはありませんか?」
少し考えてみる。行きたいところ……は、これと言ってないな。本屋とかCDショップにもついこの前行ったばかりだし、だいたい俺の懐事情は我らが団長様のおかげで常に淋しいものだから、そんな贅沢ができるわけでもない。 じゃあやりたいことは、と考えたところで、俺はふとあることを思い出した。
「なあ古泉、お前、宿題はどの程度進んでるんだ?」
「宿題ですか?……そうですね、半分強、というところでしょうか」
「ちょっと教えちゃくれないか?どうも分からないところがあってな」
去年は例の夏休みループ事件の最終日にSOS団全員で勉強会をやったりして、結局それが事態の解決の糸口になったわけなんだが、今年はハルヒの口からまだそういう話は出てきていない。もしかしたら夏休みの終わり際にまたやろうと考えてるのかもしれないが、そこで宿題の終わってなさをあれこれ言われるのもごめんだし、俺としてもできるならああいう精神的負担はさっさと終わらせてしまいたい。そう思ってもなかなか進められないもんなんだけどな。
「僕は全く構いませんが、何か持ってきてらっしゃるんですか?」
「ああ、数学をちょっと……お前がこの三日で何をしたいとか聞いてなかったから、そういう時間があるのか分からなかったけど、一応な」
古泉は理系の特進クラスなので、こいつに聞くんだったら数学とか化学とかが一番いいだろう。それ以外だって俺よりは成績がいいんだから別に構わないだろうが、今回の数学は課題の量が特に多かったから、こういう時にはそういう面倒くさいものから終わらせていくに限る。
「じゃあ、食べ終わって一休みしたら、やりましょうか。宿題は僕も途中になっている部分がありましたから。よろしければおつきあいしますよ」
「ああ、悪いな」
「いいえ、泊まりに来て下さって、ご飯まで作って頂いたりしていますからね。このくらいはお安い御用です」
『夏休みに同級生の家で勉強会』とか言うと、ものすごく健全な感じがするんだが、微妙にそういう部分だけでもないのはまあ、この際置いておこう。


それから俺たちは食事のあとで片付けをすませて、宿題にとりかかった。古泉は相手に合わせた教え方をするし、こっちが分からない時は何度でも丁寧に繰り返してくれるので、こういうのには向いてるんじゃないかと思う。若干説明過多の部分もないとは言えないが。機関のアレがなくなったら家庭教師のバイトでもしたらいい。きっと人気でひっぱりだこになるぞ。しかし古泉と家庭教師、という二つの単語を並べてみると、とたんにいかがわしい雰囲気が漂い始めるような気がするのは俺だけかね?
「どうしました?」
目の前の問題集を見つめながらそんなことを考えていた俺に、古泉が聞いてくる。
「いや、別に何でもない」
そう言って俺はまた次の問題に神経を集中させることにした。何も自分から藪をつついて回ることはない。出てくるのは蛇どころじゃすまないのは簡単に予想がつくことだ。真っ昼間から人に言えないような展開に引きずり込まれるのは避けたい。とりあえず今くらいは。
それほど根を詰めて取りかかったわけでもないが、二人でやったのが良かったのか、宿題はわりと先まで消化することができた。疲れたらひと休みしたり、合間の昼飯に昨日のカレーの残りを食べたりして、結局ひと段落ついたのは午後二時を回る頃になっていた。
やっぱり一人でだらだらやるのとは違うもんなんだな。それに分からないところがあったらすぐに質問できるというのもいい。この点は俺が古泉に頼りっぱなしなので、ちょっと申し訳ないような気がしないでもないけどな。 俺がそう言うと「そんなの、気になさらないでいいんですよ」と古泉は答えていたが、まあ、こいつがいいと言うんだったらいいかと思う。古泉いわく、あなたの役に立てるのならそれ以上を望むべくもないです、ということなんだそうだ。相変わらずお前の望みとやらはわりと簡単なものばっかりだよな、と俺が言うと、古泉は相変わらず幸せそうに笑っていた。その顔はちょっと悪くないと思う。

気がつくとちょうどいい時間になっていたので、宿題の礼ってほどのものじゃないが、俺は昨日約束していたパンケーキを作ってやった。材料を混ぜてフライパンで焼くだけなので、本当に簡単なもんなんだが、古泉はまたその様子を横で興味深そうに眺めていた。ある程度じっくり焼かなくてはならないのでちょっと時間はかかるが、まあそれは仕方がない。古泉が文句一つ言わず、むしろ楽しげなそぶりで焼き上がりを待つのを見て、こいつは子供の頃からこんなんだったのかな、なんて考えてみたりした。こんなに期待のこもった眼差しで待たれていたら、母親はきっとどんな料理でも作り甲斐があることだろう。
パンケーキはそこそこいい感じで出来上がり、俺たちはテレビを見ながらそれを二人で味わって食べた。
古泉はまた目をキラキラさせて感激していたが、俺としてはそこまで喜ばれるほどのものじゃないような気がする。でもとりあえず気に入ったらしい様子だったので、無駄にはならなかったかな。
自分の皿の上のパンケーキをきれいに食べ終わった古泉が、こっちを見てにっこりと笑った。 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「そりゃ良かった。あんまりたいしたもんじゃないけどな」
「そんなことはありませんよ。味もそうですけれど、あなたが僕のために作ってくださったということが、僕にとってはこの上ない喜びなんです。ありがとうございます」
そう改まって言われるとこっちのほうが居心地悪くなるくらいなんだが。
……まあ、そう言ってる古泉の目を見てると、そこには全く嘘が感じられないので、本当にそう思ってるんだろう。だったらいいか。


「──あの、よろしければ後で僕につきあっていただきたいのですが」
「ん?」
「もうちょっと暗くなってからがいいんですけどね」
少しずつ日が傾いていく窓の外を眺めながら、古泉が言う。
「ああ、別にかまわないぞ?」
夏っていうのは、太陽が出てる時間が長いのがいいと思う。それなりに遅い時間まで遊べるし、冬みたいにあれこれと服を着込む必要もないから、身軽で楽なところも俺は好きだ。さすがに暑すぎるのにはうんざりするが、その点古泉の部屋はちょうどよく空調がきいているので、こうしてのんびり過ごすのも苦にならない。こういう夏休みも、そんなに悪くないかもしれない、と思った。


まだ気温はそれなりに高いものの、すっかり日が落ちて暗くなった頃、俺と古泉は二人で近くの小さな公園に来ていた。
「おい古泉、準備できたぞ」
「ありがとうございます。……実は朝、コンビニに行ったときに安く売っているのを見つけてしまいまして。つい手を伸ばしてしまったんですが、あなたにおつきあいいただけて、良かったです」
そう言って古泉は持参したビニール袋から、明らかに子供向けの小さな花火セットを取り出した。
同じく古泉の家から持ってきた小さなバケツに水をくんできた俺は、それを近くにおいて、用意した細い蝋燭に火をつけてやる。古泉を見ると、しゃがんだままで熱心に花火セットの包装をほどいて準備を続けていた。何だかその様子がまるで子供のように見えて、俺は思わず笑ってしまった。
それに気付いたらしい古泉が苦笑しながらこちらを見上げる。
「そう笑わないで下さい。僕もちょっと恥ずかしいと思わないこともないんですから」
恥ずかしいって、お前がか。普段は日常的に恥ずかしい台詞や行動の大安売りをしているくせに、こんなことに羞恥心を発揮しないでもらいたい。それは思いっきり使いどころを間違ってるだろう。そういうのがあるならもうちょっと別の部分でもそれを持ち合わせてくれると、俺の色々な動揺も減るんじゃないかと思うんだけれどな。
古泉の買ってきた花火セットは本当に小さい子供を対象としたものだったので、打ち上げだとかの派手なやつは入っていなかった。全部手で持って楽しむタイプのやつだ。俺は妹がやりたがるから毎年こういうのは家族でやってたりするが、古泉にしてみれば、多分久しぶりだったんだろう。手元の花火から赤やら青やらで小さく飛び散る火花を、どこか嬉しそうに眺めている。
あたりに漂う火薬の匂いは、いつ嗅いでも何か懐かしい気持ちになる。家族で田舎に行った時に、毎年のように近所の子供たちと一緒にこうやって花火をやっていたせいだろうと思った。古泉にも、今はいざしらず、もっと子供の頃にはきっとそういう機会があったんだろう。こいつがあの場にいたら、やっぱり今みたいに楽しげな態度を見せるんだろうか。俺は何となくその光景を見てみたいような気がしていた。
セットに入っていた花火を大体やりつくしたところで、最後に残ったそれを手にして、古泉が小さく微笑んだ。
「最後に残しておいたんですけど、僕は実はこれが一番好きなんですよね。日本の情緒、って感じがしませんか?」
わりと洋風な見た目のお前がそう言うと、ちょっと面白いな。
俺はそんなことを思いながら、同じく手にとったそれに火をつけた。
でもまあ俺もちょっとその点については同意見だったりする。
目の前で小さな火花を上げながら爆ぜていく線香花火を見ながら、俺はそう考えてみたりした。
細く撚られたこよりの先に炎の粒ができて、小さくふるえながら、細い枝を広げるみたいに火花が散っていく。最後に炎が燃えつきて落ちるまで、つい無言で見つめてしまうのがいつもながら不思議だ。どうやら古泉も俺と同じらしく、手にした線香花火の先をじっと見ているようだった。
夏の暑いさなか、公園でしゃがみこんで線香花火に興じる男子高校生二人組、って考えると、どうにも微妙な感じがするんだが、そのくらいはまあいいか、っていう気がする。夏休みって、こういうことに使うべきもんだろうと思うからさ。


持ってきた花火をすべて終えた俺たちは、後片づけをすませてその場をあとにした。古泉はとても満足そうで、俺はその顔を眺めながら並んで帰り道を歩いた。
あともう少しで家にたどりつくというところで、その時、古泉がふと足を止めた。
「どうした?」
振り返って一歩後ろで佇む古泉に声をかけると、何だか色んな感情をもてあましたような表情でこちらを見ているのがわかった。何かあったのか、と全部口にする前に、正面から抱きつかれる。
「おい、古泉ちょっと待て」
「……すみません、少しだけこうさせてもらえませんか」
家はすぐそこなのに、何でわざわざ外でこういうことをしたがるんだ。確かに今いる場所はあまり人通りもなくて、街灯の光もそれほど強くないから、そう簡単に人目にさらされるようなこともないかもしれないが……。
「昨日から二日間、本当にありがとうございました。僕はこんなに幸福な時間を過ごしたことはありません。あなたにはどう感謝したらいいのかわからなくなります」
「だからどうしてお前はそう大げさなんだ」
俺が嘆息すると、すぐ近くで微笑むような気配がする。
「──今朝、一人でコンビニに行って、帰ってきたときに、僕はちょっと泣きそうになりました。玄関にはあなたの靴があって、部屋に戻れば、自分のベッドであなたが眠っている。あなたの待つ部屋に帰れるなんて、夢みたいだった。これ以上の幸せなんて、きっと、他にないだろうと思って……」
言葉をあふれさせるように言いつのる古泉を、俺はゆっくりと抱きしめ返した。ゆっくりと頭を撫でてやる。こういう時俺のほうが背が低いって不便だな、なんて思いながら。
「おまえの幸福って、ほんとに何つーかこう……小さいことばっかりだよな」
でも俺は知ってる。世界を崩壊から防ぐ超能力者だったりとか、人目をひく華やかな容姿をしてたりとかの目立つ部分とは逆に、こいつがごく普通の生活の中の、ほんのささやかな出来事に喜びを感じているんだってことを、今はよくわかってる。だからこの二日の間、何か特別なことをするわけじゃなくて、ただ俺と一緒にいようとしたがったのも、それがこいつの本心からの望みなんだと、そう思う。
そして俺は、そんな風に小さなことで嬉しそうに笑う古泉を、とても悪くないと──好きなんだと、思った。
「ほら、行くぞ」
強く抱きしめてくる腕をなだめながら解かせて、そのかわりのように俺から手を繋いだ。古泉はあからさまに驚いた顔をして、俺はちょっとその顔もいいな、なんて思ってしまった。
「帰ろう、お前の部屋まで」
今日だけは、俺たち二人の部屋まで、だな。
たまにはこういう恥ずかしい考え方も悪くない。夏だからっていうのでもいいし、古泉の毒気にあてられたんでも、まあ何でもいいか。
横に並んだ古泉の表情を見ながら、俺はそんな風に考えていた。

その晩はまた二人で晩飯を食って、風呂に入って、借りてあったDVDをちょっと見て、古泉のベッドで眠った。男二人が寝るには明らかにせまいベッドの上で、さらに抱きついてこようとする古泉の腕をふりほどかなかったのは、こいつと離れがたいんだと、俺も確かにそう感じていたからだ。これが自然になっちまったら、どうするんだろうな。そんなことになったら、本当にいつか、一緒に住むしかなくなるんじゃないだろうか。
眠りに落ちていく意識の中で、俺はそんな考えを頭の中によぎらせながら、ゆっくりと目を閉じた。


次の日は、俺が昼には家に帰らないといけなかったので、朝飯を食べたあとはテレビを見ながらのんびりと過ごした。時間が過ぎるにつれて古泉がちょっと寂しそうな目をするのを、俺は苦笑しながら眺めた。別にまたどこででも会えばいいだろう。俺はそう思うんだが、古泉はそれでも残念そうな表情をしていた。しかもそれを隠そうとして隠し切れないでいるのがよくわかるから、本当にどうしようもない。普段あれだけ披露しているポーカーフェイスはいったいどこにやったんだよ。
「あなたの前でそれをしても意味がありません」
少し拗ねたような口調で古泉が言う。お前は子供か。子供にしてはちょっと図体がでかすぎるな。でもまあ、あの整えられた作り笑顔より、そういう表情のほうがいいと思うのは、むしろ俺のほうなのかもしれないが。
「それじゃ、俺はそろそろ帰るから」
時間が来て荷物を手に立ち上がった俺のあとを、古泉がついてくる。
「待ってください、せめて下まで送ります」
「送るような距離じゃないだろうが」
「そのくらい許してください。僕は今あなたを引き止めないようにするので精一杯なんですから」
本気でそう言っているのがわかって、俺はその言葉に折れてやらざるを得なかった。困った奴だと思うけれど、それがこいつなんだっていうのは、俺もよくわかってることだった。 エレベーターで下に降り、マンションの入口にたどりつく。いつもの饒舌さをどこにやったのか、古泉は何も言わない。お前は本当に色々と分かりやすすぎるよ。でもそんなおまえを見てうっかりほだされそうになる俺がいるんだっていうことには、きっと気付いていないんだろうな。
「じゃ、またな」
「──はい、お気をつけて……」

古泉がそう言ったところで──電話が鳴った。
古泉のじゃない。さっきこいつは電話を持って出てきていないから……だとしたら俺のか。
鳴り響く着信音の発生源をカバンの中から探り出した俺は、ディスプレイに表示された名前を見て少し驚く。
その名前は間違いなく、涼宮ハルヒ、だった。
「もしもし……」
『キョン、明日は盆踊りよ!』
「──おまえはまた、どうしてそう前置きってものがないんだ……」
『そんなのわざわざ言わなくたって、団長の意志をくむのが団員のつとめでしょ。明日は盆踊りだそうじゃない。祭りの喧騒に乗じて未確認生物がひょこっと姿を現すかもしれないわ。これを逃す手はないわね!』
未確認生物はともかく、SOS団で揃って行けば、そこには少なくとも宇宙人と未来人と超能力者がより集まることになるんだがな。もちろんハルヒにそれを教えてやるわけにはいかないが、不思議なんていつでもお前が自分からその首根っこをおさえて連れてきてるだろ、と俺は思わずにはいられなかった。
「だいたいお前、今どこにいるんだ。親戚の家にいってたんじゃないのか?」
『さっき帰ってきたところよ。そこでも夏祭りがやってるのを見て思い出したの。有希とみくるちゃんには電話しといたから、あとこれから古泉くんにも知らせなきゃ』
「……古泉なら今俺の近くにいるぞ」
『あらそうなの?じゃあちょうどいいわ。明日の昼にいつもの駅前に集合ね。ちゃんと伝えなさいよ。これで古泉くんが来なかったらあんたが言わなかったんだと判断して、向こう一ヶ月の団活動ではおごり決定だからね』
そんな条件付けをしなくたって、どうせおごるのは俺に決まってるんだろ。
それが暗黙の了解になっちまってる現状は何とかして打破したいところだが、まあとりあえずハルヒの用件だけは聞いてやることにした。
「わかったわかった、伝えといてやるから」
『返事は一回でいいのよ、誠意が伝わんないでしょ。じゃあそれだけだから、明日ね!』
そう言って、ハルヒからの電話は一方的に切れた。いつものことながらあいつの勢いだけは誰にも止められそうにないな。
「……と、言うことらしいぞ。聞こえてたか?」
見上げると、古泉が頷きながら苦笑しているのがわかった。ハルヒの声は充分大きかったから、たぶん受話器からもれていた会話もちゃんと聞こえていたんだろう。
「まあ、盆踊りといえば日本の夏の風物詩ですしね。そんな行事を涼宮さんが見逃すはずはないと思っていましたが」
「予想通り、って感じか」
つられて俺も笑った。さっきまでの沈んだ空気が嘘みたいに消えている。
「……でも今日は、僕は涼宮さんに感謝しなくてはいけませんね」
「何がだ?」
「──これでまた、あなたと次の約束ができます」
古泉はそう言って小さく微笑んだ。
……本当に馬鹿なやつだな。心からそう言ってるんだとわかるから、余計にそう思わずにはいられない。だから俺はこう言ってやる。
「そんなの、いくらでもしたらいいんだよ。お前がしたいんだったらそう言えばいい」
俺ができる範囲でなら、聞いてやるさ。
そう言った俺を、古泉は眩しそうな目で見て、晴れやかに笑った。


見送る古泉に小さく手を振って、俺は照りつける日差しの中を家路についた。今日もきっと暑くなるんだろう。去年の、あのループしていた夏の日々のように。
15000回とはさすがに言わない。でも俺は、何回かだったら、この三日間をまた繰り返しても構わないかもしれないと思う。
そんな風に考えながら、俺は一人、陽炎が立ちのぼるアスファルトの上を歩いていった。



(完)