共鳴する、僕の心


僕に課せられた役目は、神的存在である彼女の、精神の安定を図ることだ。
世界が崩壊へ導かれることのないように気を配り、どうすれば彼女の心が満たされるのか、望んでいるものは何なのかと、常にそれを考え続ける必要に迫られる。それが自分の日常だ。
だから、きっとそのせいなのだ。
彼女の心に寄り添うように生きてきたことの、これは、副作用のようなものなのだと、僕は考える。

「──涼宮さぁん、まだですか?」
「もうちょっとだから!みくるちゃんは大人しくしててくれればいいの」
「わかりました……」
涼宮ハルヒの気まぐれに付き合わされる朝比奈みくる、というこの構図はもはやSOS団の日常の一風景となっていて、見ているとむしろ「今日も平和だな」という感想を自然に抱くことができる。結構なことだと思った。朝比奈さんにとっては難儀なものなのかもしれないが、最近では彼女もそれなりにこの日々を楽しんでいるように見えた。
その二人に加えて、窓際の指定席で本を読む長門有希、そしてアナログなゲームに興じる彼と自分がいれば、それは何の変哲も無い穏やかな放課後のワンシーンだ。何事もないということ以上に、素晴らしいことはない。
既に朝比奈さんはあのすっかり板についたメイド装束を解いて制服に戻っており、いつもならそこで解散、となるところなのだが、今日の彼女は涼宮さんの思いつきに付き合わされて、大人しく椅子に座っている。
その涼宮さんはといえば、先程から座った朝比奈さんの後ろに立って、彼女のその長い髪を器用な指先で結っている。何と言う髪型なのかは僕にはわからないが、後ろで二つに分けた髪を耳の下あたりでそれぞれ三つ編みにして、くるりと小さなかたまりにまとめようとしているようだ。あえて言うなら、チャイナドレスあたりを着るのにふさわしい髪型とでも言おうか。 結い上げるにはそれなりに時間がかかるものらしく、その間動けない朝比奈さんは、鞄から教科書を取り出して、それを眺めているようだった。
「さ、出来たわ!どう、みくるちゃん。こういう髪型もアリじゃない?」
「ええ、そうですねぇ、今日は暑いですし、これなら涼しくて、いいかもです」
普段は長く垂らされている髪が左右にすっきりと纏め上げられており、確かに涼しげな印象だった。慣れないせいなのか、しきりに髪に手をやってはいたが、朝比奈さんもまんざらでもないような表情だ。
「古泉くん、どう?みくるちゃんのこの髪型」
「非常に結構だと思いますよ」
問われて、素直にそう答える。涼宮さんも上機嫌だったし、僕としても特に文句を言うべき点は見つからない。
特に意見を求められはしなかったが、僕の向かいに座っている彼も、それなりに良い印象を持っているらしかった。さっきから横目で何度か朝比奈さんの姿を眺めては、わずかに目を細めていたのを知っている。それ以上彼は何も態度に表そうとはしなかったので、涼宮さんを徒に刺激する展開にもならなさそうだと思った。
「そういえばみくるちゃん、何読んでたの?現国?」
「これですか?はい、明日の授業で当たりそうなので、ちょっと読んでおこうと思って……」
言いながら、朝比奈さんは机の上に置かれた教科書をパラパラとめくってみせた。
「へえ。2年って今何やってんの?」
涼宮さんのその問いに対して朝比奈さんが答えたのは、よく知られた純文学作品のタイトルだった。僕もあらすじ程度ならば知っている。確か、主人公とその友人とある女性の間の、三角関係の話だ。主人公はある女性を好きになるけれども、その女性は友人のことが好きで、葛藤しながらも女性の愛情を受け入れる友人を見る主人公との関係がどのように変化していくか……というような話だった気がする。
もちろん涼宮さんもその作品のことは知っていたようで、ああそれね、と答えて朝比奈さんの教科書を眺めていた。
「まあそういうの、よくある話よね。別に現代でも」
「そうですねー。……でもこういうのって、ちょっと、憧れたりしませんか?」
「あたしは嫌よ。だって鬱陶しいじゃない」
「うぅん、確かに自分がそういう立場になったら大変だと思いますけど……何ていうか、少女マンガみたいで」
「みくるちゃんはやっぱりロマンチストよねえ。……有希は?どう思う?」
手にしていた教科書を朝比奈さんに返しながら、涼宮さんが目の前に座る長門さんに尋ねた。
「どう、とは」
膝の上で開いた本から視線を外さないままで、静かな声が答える。
「もし自分がそういう立場になったらどうするの?ってこと」
「いずれにも、応えられない」
「そうなの?」
「そう」
いつも通りの淡々とした受け答えに、涼宮さんは納得した様子だったが、今日の彼女は質問の矛先をさらに広げてきた。
「ふーん。じゃあキョンは?」
「──は?俺?」
彼は軽く目を見張りつつ、彼女に返事をした。かくいう僕も内心では少し驚いていたのだが、もちろん表情にあらわれるほどではなかっただろう。
「そもそも、そんな状況には縁がないんだが。でも俺もそういう面倒なのは勘弁してもらいたいな」
各方面が彼に寄せる関心の高さを思えば、決して『縁がない』とも言い切れないところだが、それは彼の知るよしもない部分だ。
「そういう話題は古泉にでも聞けよ。こいつなら多分引く手あまただろ」
「……残念ながら、僕はSOS団の団員としての使命を全うすることで精一杯なんです。ですので、そんな機会はありませんよ」
いつものように笑顔を浮かべながら答える。彼が怪訝そうな目でこちらを見たのに気付いたが、今言ったことはそれほど誤りではないのだ。
──ごく一部の要素を除いては。
「何かアレね。みんなあまり変わり映えしないってことかしら」
各自の意見を聞いた涼宮さんがそう呟いた。



「じゃ、帰るわよ、みくるちゃん」
「はぁい」
その声とともに、長門さんが無言のまま手元の本を閉じた。
「あんたたちは?どうするの?」
「あー……。もうちょっとでコレ終わりそうだから、先に帰ってろよ」
手元に広げたカードゲームを見ながら彼が答える。
「そう。戸じまりだけはちゃんとしてってよね」
「わかってるよ」
「じゃあまた明日ね!」
そうして、女性達は連れ立って部室をあとにしていった。室内に、形の違う静寂が舞い降りたような気がした。
「──では、続きをやりましょうか?」
「ああ」
残された僕たちは、途中になっているゲームに視線を戻した。




「──彼女は、あなたの意見を聞きたかったのですよ」
机上のゲームが佳境に入ったとき、僕は彼にそう話しかけた。
彼の視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「何の話だ?」
「先程の、朝比奈さんの教科書に載っていた文学作品の話ですよ。涼宮さんは全員の話を聞いてはいましたが、本当に聞いてみたいと思っていたのは、あなたの意見です。彼女は恋愛というものに対するあなたの考えに興味があった。だからあんなことを言い出したのです」
「……あいつは『恋愛は精神病の一種』とか言うような女だぞ。それなのに俺にそんなことを聞きたがるとも思えんが」
「表面的にはそうでしょうね。いえ、彼女自身も実際にそう考えているのかもしれません。ですが、無意識の部分……感情に関しては、そうではないことも大いにあるでしょう。普段どれほど荒唐無稽な振る舞いをしようとも、神に等しい力を持っていようとも、彼女が高校一年生の少女であることに変わりはありません。恋愛に興味を持っても、何の不思議もない」
「俺に言わせれば、お前らが何かと言うとそういう方面に話を持っていきたがるのも、どんなもんかと思うがね。ハルヒの精神状態に気を配らなきゃならんって言うのはまあわかるが、だからってあいつの言動をいちいち恋愛沙汰へ発展させようとするのはちょっと早まりすぎじゃないか?あいつがそれほどそういうのを理解しようとしてるようには思えないね」
嘆息しながら答える彼に、僕は思わず苦笑した。
「……何だよ」
「いえ。実にあなたらしいと思いまして。そういう部分ではあなたと涼宮さんはよく似ていますよ。お二人とも、決して積極的にそちらへ足を踏み入れようとはなさらない」
「それが問題だって言いたいのか?」
「いいえ、それが個性だと言うのであれば悪いことだとは思いません。まあ、涼宮さんはともかく、あなたのそれは少々度を越しているように感じることもなくはありませんが」
ゲームの勝敗はすでに半ば決していた。僕には本当にこういう方面の才能はないようで、色々と挑んではみるものの、彼に勝つことができる機会は非常に稀だった。
「──あなたは先程、涼宮さんが恋愛と言うものを理解しようとしているとは思えないと仰いましたが……」
カードをめくりながら、僕は先を続ける。
「あなたは、どうなんですか?それを理解していますか?」
「……言っただろ。俺もハルヒと大して変わりゃしない」
僕はその答えを聞いて、思わず微笑した。それを見た彼が不機嫌そうに眉をしかめるのを見て、僕はまた改めて続きを話した。
「気にさわったのならお詫びします。ですが、僕はきっとあなたの考えているような意味で笑ったのではありません。実に、あなたらしい答えだと思ったからです」
手元のカードをそろえながら、彼がちらりとこちらを見る。
「──恋愛感情は、言ってみれば一種の差別と同じものだという意見があります。この世界に無数に存在する人間の中から、たった一人を選びとり、特別な存在として扱おうとすることだと。特定の相手にだけ他には与えない愛情をそそぎ、相手からもそのように思われたいと願うことは、ある意味『差別』と定義しても差し支えのないものなのかもしれません。僕は、その意見を是とするならば、あなたがそれを理解しがたいと考えるのもよくわかることのように思います」
「お前が何を言いたいのか、俺にはよくわからない」
「そうですか?」
彼は優しい人だった。どれほど口では「面倒だ」とか言いながらも、ちゃんと相手のことを気にかけているのを知っている。それは明らかに好意を持っているとわかる朝比奈さんに対してだけではなく、涼宮さんや長門さんや、──僕に対してさえ、そうなのだ。
それはある意味、差別というものとは対極にある態度と言ってもいい。
いったん自分の懐に入った人間に関してなら、彼は誰一人見捨てることなく、許容しようとするのだろう。
かつて、世界の全てを倦んでは、周囲の無理解に毎日のように心をささくれさせていた涼宮さんが彼に惹かれていくのは、僕には当然のことのように思えた。


三年のあいだ、彼女の心の動きを何よりも重要なものとして注視し、何が彼女にとって快で、何が不快なのかを考えることに、僕は神経をすりへらしてきた。そんなことをしているうちに、いつの間にか僕は時々無意識のうちに彼女の心の機微に共鳴してしまうような時がある。
それはもちろんあくまでも「僕の解釈に基づいた涼宮さんの感情」であり、実際のところはわからない。
でも思うのだ。彼が文句を言いながらでも彼女の望みを聞こうとしたり、無体に思えるような願いでもまずは話を聞こうと、受け入れようとしてくれたりする、そのことがどれほど得がたいものであるか。そしてそのたびに彼の存在が心の中で重くなっていくのを、僕は彼女がきっとそうであるように感じとってしまう。
そう、まるで、自分のことであるかのように……。


「──あなたは、ある種の人間にとってはたまらない魅力をもっている人だと言ってもいい。それは、自分を受け入れてほしいと願いながらも、今までそれがかなわなかった人間です。そんな人間にとって、あなたのような人は奇跡にすら見えるのかもしれません。そういう存在に出会ったとき、相手の特別な位置を手に入れたいと願うのは、決して不自然なことではない。ある種の人間というのは、例えばそれは──」
言葉を切った僕を、彼が静かな眼差しで見ている。室内を満たした静寂が、ほんの少しだけ色を変えたような気がした。
「……涼宮さんのような」


「……それが、お前の考えか?今までハルヒを見てきた上での」
「ええ、そうです」
「俺は別にお前の意見に全面的に賛成する気はないが。だいたい俺はあいつをそんなに受け入れようだとかした覚えなんてないぞ。まあ百歩くらい譲って、ハルヒが俺をある程度他の奴と違う扱いで見ているとしてもだ、それを恋愛とかに結び付けようと考えるのは、早計に過ぎるんじゃないか」 僕は内心で苦笑した。やはり彼にはそう簡単に理解はしてもらえないらしい。でも一方で、そのことに少しだけ安堵する自分もいる。
「だいたいそういうお前はどうなんだ?」
「……え?」
「お前には理解できるのか?その、差別しようという感情について」
そう問われた時、僕は少しだけ驚きを表情にあらわしてしまっていたかもしれない。彼が僕の内面に関心を寄せてくれるだなどとは思っていなかったからだ。
そのわずかな動揺を抑えつつ、自分を見つめる彼の目を見返した。 こういう時に言うべきセリフはもう決まっている。


「……それは、禁則事項です」
僕は、愛らしいあの女性がするのと同じように、人差し指を自分の唇に当てながら、微笑んでそう答えた。


「──やめろ、まじで気持ちが悪い……」
思いきりうなだれた彼が心底嫌そうな口ぶりで言う。
「ひどいなあ、なるべく可愛らしく言ってみたつもりなんですが」
「それが気持ち悪いって言ってんだ。……ああもう、俺は帰る」
「そうですね、もう結構遅くなりましたし。じゃあ僕はそれを洗ってきますから、あなたはここを片付けてください」
机の上にあった湯のみを二人分手に取った僕がそう告げると、彼は「わかったから早く行ってこい」と言いながら、既に並べられていたカードを片付け始めていた。僕はそれを横目に見ながら、部室をあとにした。



彼がさっき僕の心中を尋ねたとき、僕の心にあったのは確かに喜びだった。
きっと涼宮さんならそう感じるだろうと、その考えを何度も追っていくうちに、僕の内側にもいつか生まれていた感情がある。
彼の一挙手一投足に心を動かし、その言葉に揺れ動き、相手を特別な存在だと感じ、願わくば自分も相手にとってそのようでありたいと思う。
──そんな感情を、彼に対してだけ。


『あなたは、ある種の人間にとって、たまらない魅力を持っているのです』
ある種の人間。
それはたとえば、涼宮さんのような。




──たとえば、僕のような。