誘惑
誘惑という言葉を形にするのなら、まさにこれがそうなのだと感じた。
彼はセックスのたびに、多少なりとも拒絶と羞恥の言葉を口にする。
僕はそれを半ば強引に押し流して、執拗な快楽で彼を絡め取る。
彼が、その唇から抵抗の台詞をもらすことができなくなるまで。
それが僕たちの間の暗黙の了解だった。少なくとも僕はそう考えていた。
優しい彼に僕が懇願し、彼は仕方なくそれを受け入れる。
僕はそれでいいと思っていた。そんなたわいもない立ち位置を保つふりをするだけで
彼に触れられるのなら、安いものだ。
文句など、思いつくこともなかった。
──だが、今、僕の目の前にあるこの光景はなんだろう。
僕の部屋に来て、何度も交わったことのある僕のベッドの上に横たわり、
制服のシャツの胸元を半ばまで開き、気だるげな視線でこちらを見上げてくる。
それは全て、僕が一度も手を触れないままに、彼が自分でしたことなのだ。
これは……何だ?
「──どうした?撮らないのか?」
言われて我に返る。そこでようやく自分の手の中にあるデジタルカメラの存在を思い出した。
そうだ。これは涼宮さんの発案で、SOS団の資金源をこれまでの男性相手だけではなく女性層へも求めようということから始まった話だった。
2分の1の確率でその標的に選ばれた彼は、もちろん最後まで盛大に文句を言っていたが、自分がそうすることで従来のマスコット的存在である朝比奈さんの負担が減るのだ、という理屈に言い負かされた格好で、結局彼はその役目を引き受けた……のだった。
かくして『彼の意外な一面を表現した』写真を撮ってくることを命じられたわけなのだが、漠然としたテーマにどう沿うのよいのか、僕は少々戸惑ってもいた。
「女性ウケを狙うならこうしなさい!」と言う涼宮さんの事細かなアドバイスを、非常に苦々しい表情で彼が聞いていたのを覚えているが、これがその結果だというのだろうか。
それにしてもこれは……。
「古泉?」
「……あっ、はい、すみません。今撮ります」
知らず震えそうになる手を叱咤し、カメラを構えて一枚だけシャッターを切った。
ファインダー越しに覗いた彼の目線はこちら側にはなく、その瞼はわずかに伏せられている。
そこから生まれる微妙な陰影が、普段の彼からはとても見出すことのできない艶を醸し出しているように思えて、僕はまた言葉を失ってしまった。
「どんな感じなんだ?見せてみろよ」
返す言葉が出てこなくなった僕からカメラを奪い取り、彼はさっき撮ったばかりの画像を見ているらしかった。眉をしかめて怪訝そうな顔で液晶画面を覗きこんでいる表情はいつもの彼のもので、僕はそれを見て、自分を捕らえていた抗い難い呪縛からやっと解き放たれたような思いがした。
「……ふーん。まあ、こんなもんでいいんじゃないか?何度も撮り直すとか面倒なことする気、ないしな」
「ええ、それでもう、充分だと思いますよ」
彼からカメラを受け取り、画像が間違いなく保存されたのを確認してからそれをケースにしまった。涼宮さんがこの画像を見たら絶句するのではないかという気がするが、出来に文句を言うようなことは多分ないだろう。何となくそう思う。
いや、むしろこれを広く世間に公開することをためらったりするのだろうか……?わからない。
「──何をそんなに、うろたえてるんだか」
笑い混じりの声が聞こえて、僕ははっと顔を上げた。
彼は相変わらずベッドに横たわったままだった。その表情はさっき見た普段の彼のものではなくて、その前にカメラ越しに見た時の、あの顔に近いように感じる。
でも実際には、先程のそれよりもずっと性質の悪いものなのだと僕が気付くのには、そう時間はかからなかった。
少し細められた目、悪戯な角度で笑みに歪んだ唇。
肌蹴られた胸元のボタンは未だ留められることなく、無防備にシーツに投げ出された右手もそのままだ。
僕は自分の目を疑った。
──これではまるで、誘惑のようではないか。
彼が、僕を、自分から誘い入れようとしている。何をどう解釈しようとしても、そうとしか見えない。彼がこんな素振りを見せたことは、今まで一度もなかった。内心はどうであれ、彼は『僕が望むから受け入れている』というポーズを取りたがる人であるはずだったから。
もちろん、それが彼の本心からのものではないことくらいは、僕にもわかっていた。
彼がどうしても嫌がることなど僕はする気はない。
でもどうして今、彼はこんな風に自分から、
「お前でも、そんな風になるんだな。いつも余裕そうな顔してるくせに」
──状況を必死に自分の中で整理しようとしていた僕の思考は、彼の一言によって一瞬で空回りする。
彼はとても楽しそうに、更にその唇に刻まれた笑みを深くする。
その形から、まるでしたたり落ちるような色気を感じて、僕は頭を思い切り殴られたみたいな衝撃に打ちのめされた。
彼は僕から視線を外さないまま、左手を自分の胸元に伸ばした。半ばほどけかけていたネクタイに手をかけ、ゆっくりと解いていく。
臙脂色の布地に彼の指先が絡む、その色の対比がひどく鮮やかで、強烈に目に焼きついた。
僕はそのまま、彼が解いたネクタイを引き抜いて、ベッドの下に放り投げるのを、ただ見ていることしかできないでいた。
──あまりにも強い欲望は、人から自由を奪ってしまうものなのだと、初めて知った。
全身を支配する衝動に、息がつまる。
そんな僕を、彼はとても面白そうに見上げた。その目が悪戯っぽくきらきらと光って、濡れている。そしてさっき自分でネクタイを解いた左手をこちらに差し伸べて、
「……ほら、早く来いよ」
と言って、笑った。
ゆっくりと手を伸ばし、彼の指の熱に触れたところで、自分の中からあらゆる余裕や躊躇が消し飛んだのを、頭の隅で感じた。
水に飢えた砂漠の旅人のように自分を貪る僕に、彼が「そんなにがっつくな」と言ったような気がしたけれど、今さら止められるわけもなかった。
だってそんなの、無理に決まっている。
彼の誘惑に抗うすべなど、僕は最初から持ち合わせていないのだから。