「──は?」
古泉の発言に俺が間抜けな返事をしてしまったのも、無理もないことだろうと思う。
こいつが俺の理解を超えた台詞を口走るのは決して珍しいことじゃなかったが、今回のはまたいつもとちょっと方向性が違っていたので、俺はすぐに反応することができないでいた。
そんな俺を見て古泉は苦笑していたが、それでもしばらくためらった後にこう続けた。
「さっきも言いましたが、色々考えてはみたんですよ。正直なところ、あなたとならばどこへ行っても楽しいだろうと思うんですが、自分が何をしたいのかと考えてみた時に、結局たどりついた答えがそれでして……」
まだ今ひとつ状況をつかめないでいる俺に、古泉はやわらかく微笑みながら言う。
「特別なことは、何もいらないんです。ごく普通の時間を、あなたと一緒に過ごしたい。僕にはこれ以上望むことはありません。もし、あなたが嫌でないのなら……お付き合いいただけないでしょうか?」
いただけないでしょうか、ってなあ……。
古泉はそう言ったきり無言で、俺の答えをじっと待っている。表情は相変わらず穏やかだが、その目の奥には期待と緊張と、俺に拒絶されることへの恐れが隠れていることぐらいは、もうお見通しだ。
俺は古泉のその顔をしばらく眺めてから、
「俺は別に構わないぜ。お前がそれでいいなら」
と答えてやった。
「……ありがとうございます」
俺のその言葉を聞いて、さっきまで漂わせていた緊迫感をきれいに拭い去った古泉が、目を細めて笑った。
そんなに嬉しがるようなことだろうかと思うが、まあこいつがそうしたいって言うんなら、それに付き合ってやるのも悪くないかもしれないと感じた。ちょっと予想外な展開ではあったが……。
「あ、でも用事があるから明後日の昼過ぎぐらいまでになるけど、それでいいか?」
「ええ、構いませんよ。あなたの都合のつく範囲の時間を頂ければ、それだけでも充分です」
明後日の夜は妹を近所の夏祭りに連れて行く約束を以前からしているので、それはちょっと外すわけにはいかない。えらく楽しみにしていたから、行ってやらないと後がうるさいしな。
「──で、どうするんだ?これから」
「そうですねえ。……いつもとあまり変わりませんが、ゲームでもしますか?」
本当にいつも部室にいる時と変わらないな。まあいいけど。
それから俺たちは古泉の部屋で色々とゲームをして過ごした。古泉は部室にもかなりの数のゲームを持ち込んでいるが、俺がこの部屋に来るようになってからは、ここにも同じような類のゲーム各種を取り揃えるようになったらしい。
そういえばこいつが好んでやりたがるのはだいたいアナログなボードゲームなんかが多くて、逆にTVゲームとかはあまりやろうとしない。たまに俺と対戦型のゲームをやるくらいか。TVゲームのほうが一人でも充分に楽しめるだろうと思うんだが、そっちを選ばないところを見ると、ゲームが好きなのか俺と話すための口実にしているだけなのか、よく分からなくなってくる。
そう考えたくなると言うのも、あれだけ好んでおきながら古泉のゲームの腕がいっこうに上達する気配を見せないせいだ。まあ、下手の横好きという言葉もあるわけだし、こいつにも欠点の一つや二つ──俺から見るとそれだけではないんだが──くらいあってもいいわけだけれども、もうちょっと何とかならないのか?今日も連戦連敗って正直どうかと思うぞ。
それでも古泉はいつにもまして楽しそうにしていて、何が嬉しいのかさっぱりわからないが、俺はそんなこいつを見ていると「まあいいか」という気持ちになっていたりもしていた。
定番のオセロだのカードゲームだのをしばらく繰り返した頃、気がつけば時計の針はもう夕方の4時を指していた。
「そういや、今日の晩メシはどうする?」
「そうですねえ、何か頼んでも構いませんし、どこかへ食べに行くのもいいですが」
確か前にここに来た時は近くの店に食いに行ったんだっけ……と俺が思い返していると、古泉が何か言いたそうな目でこちらを見ているのに気がついた。
「何だよ?」
「いえ、あの……ひとつお聞きしたいのですが」
「ん?」
「以前伺ったと思いますが、あなたは料理が作れるんでしたよね」
「作れるっていうか……妹の面倒を見てる時にちょっと簡単なものを作ってやる程度なんだが」
「──もしよろしければ、」
古泉がやけに真剣な目で、ずいっとこちらに近付いてくる。いつものことだが顔が近いぞ。
「僕は、あなたの手料理が食べたいです」
「……はあっ?!」
真面目な顔で何を言い出すかと思えば、よりによってそれは無いだろう。だいたいさっきも言ったが、わざわざ人に振る舞ってやるようなちゃんとした料理が作れるわけじゃないんだぞ。
「僕にしてみれば、それは充分尊敬に値しますよ。お恥ずかしい話ですが、僕は全く料理ができませんので……」
恥ずかしいかどうかはともかく、仮にも一人暮らしでそれだとあまりにも不自由なんじゃないかと思うが、確かにこいつが料理は全く駄目だっていうのは俺も知っていた。掃除なんかはまあ、何とか人並みにできているみたいだが……食事はほとんど外食だとかって、不経済極まりないな。まあ、機関が生活を保障してくれてるんならその辺は別にいいんだろうけど。でも栄養とか絶対偏るだろう。
「簡単なものでも、全然構いません。……今まで何を作ったことがありますか?」
「何って言われても……定番なところでカレーとか……」
「カレー、いいじゃないですか。暑い時に熱いものを食べるのもまた一興でしょう。僕はぜひあなたの作ったカレーが食べてみたいです」
「おいちょっと待て、俺はまだ作るだなんて言ってないぞ」
勝手に一人で目を輝かせている古泉を、俺は慌てて制止する。何でこいつの家に来てわざわざ飯を作ってやらないといけないんだ?いや、まあ確かに俺と古泉を比較した時に、料理がどうこうという点では俺のほうがその役目に適しているんだろうが、だからと言ってごく一般の高校生男子が出来る範囲なんて、大して変わりゃしないはずだぞ?
「駄目ですか?僕も手伝いますから……」
手伝ったところで、果たしてお前がどの程度役に立つのかは全くわからないな。
古泉はじっとこちらを見ている。長門じゃあるまいし、視線だけで人に訴えかけようとするな。しかもそのキラキラしたまなざしは何だよ。
俺はひとつため息をついて、それから小さく答えた。
「──味は、保証しないぞ」
「……ありがとうございます!本当に何でも手伝いますから、どのようにでも使って下さい!」
俺に抱きつかんばかりにして喜びを表現する古泉を押しとどめつつ、自分でも自覚しているそのことに思い至り、俺は内心でちょっとまずいんじゃないかと考えたりもしていた。
何かって、俺は以前と比較すると多分、かなり……古泉に甘くなっているような気がする。特に二人だけでいる時は。
別に甘やかしてやろうと思ってるわけでは全くないんだが、何となく自然にそうなっているような気がしてならない。そもそも普段ハルヒの前とかでは自己主張をしないこいつが、今みたいに自分の希望を強く表現するのは俺といる時だけだったし、そのことに気付いてからというもの、多少のことであればまあ聞いてやってもいい、という気が……してしまうのがいけないんだろう。
どうしてそういう風になっちまったのかって、それはもう深く考えるべきじゃない内容だ。主に俺の精神の安定のためにはな。
「どうしました?具合でも悪いんですか?」
俯いて黙り込んだ俺に古泉が聞いてくる。
「何でもない。それよりさっさと買い物行くぞ。どうせお前ん家の冷蔵庫なんて、さっぱり何も入ってないんだからな」
それから俺たちがやってきたのは近くにあるスーパーで、ちょうど夕方だったからか、晩飯の用意のために来ているらしい奥さんたちの姿が多く目についた。
そんな中で高校生男子が二人で買い物……いや別に、スーパーに買い物に来るぐらい、どうっていうことないはずなんだが、何だかむずがゆい感じを覚えてならないのは、きっと横にいる古泉が不自然なほどにこやかな微笑みを浮かべているからに違いない。そんな古泉は、さっきからすれ違う奥様方の視線を一身に集めていたが、当の本人はそれらに全く興味を示さず、とろけそうな笑顔で俺に話しかけてくる。
「何がそんなに楽しいんだ?」
手頃な大きさの玉ねぎを買い物かごに放り込みつつ尋ねると、古泉は甘ったるい笑顔を絶やさないままで俺の目を見つめてきた。
「──その、これを言ったらきっと怒られると思うんですが」
「うん?」
「いいですよね、こういうの。二人で夕食の買い物をするだなんて、何かその……」
「何だよ」
「……まるで、あなたと結婚でもしたような気分になります」
この台詞を聞いて、思わず手にしていた人参をへし折りそうになってしまった俺を、誰も責めることはできまい。よりにもよって結婚ときたか。あの夢見がちなふわふわしたツラは、そんなことを考えてやがったからなんだな!
「──俺はお前のその発想がまったく理解できない」
妥当なところで友達とか、せめて家族ぐらいにしておけよ。
俺は古泉の発言の破壊力に怒る気力すら奪われてしまい、目の前に詰まれたジャガイモの山をうつろな目で眺めることしかできないでいた。
「すみません、こういうのに憧れがあるもので、つい」
小さく肩をすくめながら古泉が言う。そのポーズを取りたいのはむしろ俺のほうだ。
憧れね。確かにこいつは普段の環境が特殊なせいなのか知らないが、何ていうこともないような、ごく普通の日常生活に憧れを感じたりするらしい。テレビを見ていて、番組の合間に流れた洗剤のCMで、老夫婦が仲良く手を繋いで歩く場面をうらやましげに眺めていたりするくらいだから、どのあたりにその嗜好があるのかというのも推して知るべし、だ。
「とりあえず、さっきの表現はもうやめろ。でないと晩飯作ってやらないからな」
「それは困ります!」
そんなに勢い込んで言うことかね。しかし俺は何か晩飯を作る前から、もう大分疲労がたまってきているような気がしてならないんだが。
だいたいの材料を買い揃えて、あと何か必要なものはあったか……と俺が考えている時、古泉がしみじみとした口調でつぶやいた。
「でも本当にすごいですね。こういう料理の材料の買い物とか、慣れてるんですか?」
「別に慣れてるってほどじゃない。だいたいは妹のつきあいだ。今なら多少大丈夫だろうが、おつかいに行きたいとか言い出しても、小さいうちは一人で買いに行かせたりするわけにはいかないだろ。それにつきあってるうちにまあ、何となくな」
料理にしたって、まさか一人で火を使わせるなんて論外だから、結局俺が面倒をみてやってるうちにいつのまにか覚えてしまった、というわけだ。
「何と言いますか、僕からすると非常にうらやましいですね。あなたと妹さんはとても仲の良い、理想的なご兄妹に思えます」
「そりゃ多分、外から見てるからそう思うんだよ。別に妹のことが嫌いなわけじゃないが、それなりに大変だぞ?朝は日曜でも早くからたたき起こされるし、メシだけならともかく菓子づくりにまで付き合わされる始末だ」
「──あなた、お菓子まで作れるんですか?」
驚いた表情で古泉が尋ねる。
「作るってほどのものじゃない。ただのパンケーキだからな」
あれをちゃんとした菓子だと言うのは、全国の菓子職人さんたちにあまりに申し訳が立たない。はっきり言ってただ材料を混ぜて焼くだけだし、中身も市販のミックス粉末を水とか卵とかで溶いた程度だ。
「それも、妹さんのために?」
「まあそうだな。いつだったか、タイトルは忘れたが……何かの絵本を見てたあいつが『この本のお菓子が食べたい!』といって聞かなくてな。とりあえずそれっぽいのを何度か作ってやってるうちに、覚えた」
練習のかいあってか、今ではなかなか美味く仕上げられるようになっている。多少は時間をかけてゆっくり膨らませるのがコツなんだよな。
「……本当にすごいですね。心から尊敬してしまいます」
だから、そんなたいそうなものじゃないって言ってるんだが。
古泉はまた俺をあの無駄に輝いた目で見つめている。明らかに何か言いたそうな顔だ。
……何となくその内容の予想はつくが。
「あの、もしもう一つお願いしてもよろしければ……」
「お前も食いたいのか?パンケーキ」
「はい!」
あまりにも思ったとおりの展開に思わず遠くを見そうになるが、
「──今日は時間がないから、明日作ってやる」
「わかりました。本当に楽しみにしていますから……!」
心から嬉しそうに笑う古泉に、結局流されてやったわけだ。俺もそうとう毒されてるな。
そんなわけで俺は買い物を追加するため、またスーパーの中を逆戻りするはめになったりした。まあ、どうせ支払いはこいつ持ちなんだから、そのくらいはいいだろう。
古泉の家に戻ってからは、カレーと簡単なサラダを作って二人で晩飯を食った。俺も別に手際がいいとかでは全くないので、準備には結構時間がかかったが、待つ間も古泉は始終機嫌が良さそうだった。こいつが笑顔なのはいつものことだが、それが本心からのものなのかどうかは、俺もいい加減見ればわかるようになってるから、本当にこの状況を楽しんでいたんだろう。ちなみにやっぱり古泉は料理の手伝いにはあまり役に立たなくて、出来たことと言えば、レタスを水で洗ったりジャガイモの皮をむいたりする程度だった。まあそれでも、手伝おうという意志があることだけは評価してやってもいいだろうと思う。
夕食後のまったりした時間を過ごしたあと、俺が風呂から出てくると、入れ違いで先に風呂に入っていた古泉はベッドに腰かけてTVのニュース番組を見ていた。相変わらずちゃんと髪を乾かしていないらしく、長めの前髪からは水滴がしたたっている。俺はそれを乱暴にふいてやりながら尋ねた。
「そういや、明日はどうするんだ」
「そうですね、僕もそれを考えていたところなんですが……って、もうちょっと優しくふいて下さると嬉しいのですが」
文句を言うんだったら自分でちゃんと乾かせよ。
生乾きのまま眠って、あとで寝癖になっても知らないからな。
ある程度水気が取れたのを確認してから、並んでベッドの上に座る。古泉はそんな俺を見て、実に幸せそうな笑顔を浮かべた。
「……今日は、本当にありがとうございました。こんな日が過ごせるなんて、僕は今日で世界が終わってしまっても悔いはありません。しかも夕食まであなたに作って頂けて」
「別に、市販のカレー以外の何ものでもなかったと思うが……」
「とんでもない。とても美味しかったですよ。それに、あなたが作って下さった、ということが僕にとっては重要なんです。それ以上のものなんて、他に何もありません」
そう言った古泉の腕がこちらに伸びてくる。その手が俺の背中に回り、正面から抱き寄せられた。
「好きです」
──それはもう、嫌というほど知ってるよ。
軽く口づけられて、それから古泉の顔が離れた時、その目が何かを伺うように俺に問いかけているのがわかった。
ああもう、わざわざ聞かなくていい。別にここまできて嫌だとか、それはさすがに俺も言わないから。
だから、やるならさっさとやれ。
俺の無言の答えを察したらしく、古泉は少しだけ微笑んで、それから俺をゆっくりと後ろに押し倒した。
……やれやれ、明日はどうなるんだろうな。
そう思いながら、俺は頬をたどってくる古泉の指の感触を感じて、静かに目を閉じた。